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<侍女 Lady's maid>

 ビクトリア時代の貴婦人は、「何もしない」ことが求められました。
 自分でちょっとした仕事をすれば、「はしたない」とみなされたのです。
 そんなわけで、レディの身の回りの世話をするために、侍女が雇われました。
 この<身の回りの世話>というのは、着替えをさせ、髪をとかし、身体を洗い、
 寝かし付けるという、ほとんど介護に近いものでした。
 なにしろ、レディたるもの、何もしてはいけないので、赤ん坊と同じなのです。

 侍女は特権として、女主人のおさがりの服をもらうことができました。
 女性の使用人の中で、もっとも位が高かったのです。

 使用人には階級がありました。
 男性使用人を監督するのが執事。
 女性使用人を監督するのが家政婦。
 執事と家政婦が、使用人の採用、免職も決定しました。
 
 侍女は女性使用人の中でも別格で、執事、家政婦と並ぶ、上級使用人とみなされました。
 ですから、女性使用人の中で唯一、家政婦の監督を受けませんでしたし、家政婦からクビを言い渡されることもありませんでした。
 そして、ほかの使用人たちが使用人の部屋で食事をする間、
 侍女は家政婦、執事とともに、家政婦の部屋(パントリー)で食事をとることを許されました。
 けれども、侍女は一般的に若い女性ということになっていたので、歳をとると、年齢だけを理由にクビになることもありえたのです。
 
 できれば侍女はフランス人のほうがいい、と言われていました。
 が、それがムリな場合は、フランス風に名前を呼ぶことで、雰囲気を出したらしい。
 例 ジェーンをジャネットと呼ぶ。

<執事 butler>

 steward も butler も、どちらも日本語では「執事」と訳されることが多いですが、厳密には違います。

 バトラ−は「食堂支配人」で、ワインや食堂の管理をまかされた者です。
 家の皿(銀食器類ですね)の管理も担当していたので、夜になると銀器を金庫にいれて鍵をかけ、そのとなりの部屋で寝るという家もありました。
 朝食前に主人の新聞にアイロンをかけておくのも(当時の新聞は、インクがかわききっていなかったので主人の手を汚さないためと、しわをのばすため)バトラーです。
 また、男性支配人たちの監督役でもあります。
 バトラーにはナイフボーイという下働きがいました。
 その名のとおり、ナイフを並べたり、ナイフを研いだり、あとは使い走りや雑役担当ですね。

 スチュワードは「家令」にあたり、男性使用人筆頭で、時には男性女性使用人すべてを取り仕切ることもありました。
 スチュワードは家全体の家計管理、物資の注文、使用人の監督をまかされていました。
 大きな屋敷にはスチュワードがいましたが、もう少し小さい屋敷にはいなかったので、バトラーが男性使用人筆頭を代行していました。

 まあ、どっちも執事っちゃあ、執事ですね。
 ただ、スチュワードがトップで、バトラーはその下の地位なんです。

<社交シーズン season>

 秋冬の間、上流階級の人々は家族ぐるみでロンドン北の領地に戻り、ウズラだのキジだのキツネだのを狩って、のんびり過ごします。
 で、クリスマスころになると、議会の始まりにそなえて、ぼちぼちロンドンに戻り始めます。
 三月の復活祭が終わると、いよいよ本格的な社交シーズンが始まり、舞踏会、晩餐会があちらこちらで連日、開かれます。
 真のシーズンといえるピークは5〜7月の3ヶ月間です。
 デビューし、王宮で国王陛下、女王陛下に正式にお目通りかなうようになった娘たちは、このシーズン中に100以上のパーティーに出席します。
 目的は、結婚相手の獲得! です。
 おそろしいことに、2、3シーズンのうちに結婚相手をつかまえることができなければ、その女性は「売れ残り」とみなされ、30歳をすぎれば、「絶望的ないかず後家」だそうです。
(あたしが言ったんじゃないですよ。そう言われてたんですよ〜。おこらないで〜。
 そんなあたしは申年生まれ。)

 8月12日は議会が閉会となる日で、この日、貴族やジェントリたちはいっせいに北の領地に家族をつれて帰るのでした。この日はライチョウ猟の解禁日でもあります。
 9月1日はウズラ猟の解禁日。
 11月の第1月曜日にあの有名な狐狩りが解禁になります。

<錠前 lock>

 19世紀前半は、銀のスプーン一本でも家の中にあろうものなら、強盗に殺されてもしかたがない、というほど、物騒な時代でした。
 けれども、その被害が1970年代までに約3分の1にまで減ったのは、錠前の発達のおかげです。
 そして、この錠前の代名詞ともなったのが、チャブ社の錠前でした。
 王室御用達、イングランド銀行御用達となり、その名声と信頼は高まりました。
 1851年の万国博覧会にも出品していますが、この時にはグランプリをアメリカのホッブス社に奪われ、さらに会場で錠前のひとつがピッキングされてしまうという、屈辱をなめることになります。
 が、会場を訪れていた警視総監が「私の27年に及ぶ経験にてらしてみても、いまだかつてチャブ社の錠前を破って盗みをはたらいた者はいない」と証言してくれたことで、名誉は保たれます。
 1855年、ロンドンにはじめて郵便ポストが設置されたときにも、チャブ社の錠前でした。
 現在も、やはりチャブ社の錠前が使われています。

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