ヴィクトリア時代、ロンドンはテムズ河畔にどーんとそびえたっていた、巨大な監獄です。
どれだけデカかったかというと、監獄内部は全長3マイルもの迷宮になっており、独房の数は1200もありました。
構造は円形刑務所 パノプティコン(Panopticon)の名のとおり、中央の塔を獄舎がぐるっと取り囲むように建っています。
囚人は中央の塔から常に監視されているという無言のプレッシャーを受けるという、なかなかインケンな場所でした。
別名を監視牢と呼ばれています。
おまけに、ここの牢はすべてが独房で、沈黙も義務として課されていました。1813年に建築が始まり、1820年に完成。
当時のヨーロッパ最大の監獄です。
名は、かつてウェストミンスター寺院の水車小屋(ミル)が建っていた川岸(バンク)に由来します。
もともと干潟という悪い地盤に、こんな巨大な建物を建てるのは無理だったのですが、やっぱりというか、1837年に外壁の一部が崩壊し、ただでさえ、だだっぴろくて監視しづらい監獄だったのに、ますます監視が難しくなったのでした。
おまけに、広いせいで維持費がかかりすぎ、建物としては完全な失敗作で、これと同じ構造の監獄は、二度と作られることはありませんでした。
また、汚染された河の水のせいで、監獄内には伝染病がしょっちゅうはやり、死者が大勢でて、完成のたった2年後に、伝染病のせいで1年間の<監獄閉鎖>がおこなわれています。
どーしよーもない監獄ですね。これは実験的な施設で、死刑になる重罪犯以外の罪人に教育を与え、作業させて更正させる目的で作られた、懲治監でした。
1843年には普通の監獄になっています。
ヴィクトリア時代の女性にとって、服喪の期間はさぞたいへんで、辛かったことでしょう。
服喪の期間が長い。正式な喪が1年間。さらにやや軽い喪が1年間。
一応2年間、ということになっていますが、さらに半年ほどは準喪服を着ているのが普通でした。
服喪期間の1年目は、未亡人は社会とまったく縁を切った生活を強いられました。
あらゆる招待は断らなけれならず、みとめられていたのは、近親者を訪問したり、結婚式や洗礼式などの教会行事のみでした。
やっと1年過ぎたと思ったら、またすぐ別の近親者や政府要人、王族が亡くなって、喪服に逆戻り、ということもありました。
妻は夫の近親者が亡くなった場合にも、喪服を着なければなりませんでした。2年目からは、正喪服をやめて、もう少しお洒落な黒服に、黒い宝石類をつけました。
ジェット、アメジスト、真珠、ダイヤモンドなどが認められていました。急に喪に服す事になると、大変な出費がかかりました。
1年分の衣装、バッグ、靴、傘などの小物を黒でそろえなければならないうえに、大きなお屋敷になると、使用人たちにも喪服を着せなければなりません。
そんなわけで御婦人がたは手持ちの衣装を黒く染めて、喪服にしたのです。