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<Lady's maid 侍女>

 ビクトリア時代の貴婦人は、「何もしない」ことが求められました。
 自分でちょっとした仕事をすれば、「はしたない」とみなされたのです。
 そんなわけで、レディの身の回りの世話をするために、侍女が雇われました。
 この<身の回りの世話>というのは、着替えをさせ、髪をとかし、身体を洗い、
 寝かし付けるという、ほとんど介護に近いものでした。
 なにしろ、レディたるもの、何もしてはいけないので、赤ん坊と同じなのです。

 侍女は特権として、女主人のおさがりの服をもらうことができました。
 女性の使用人の中で、もっとも位が高かったのです。

 使用人には階級がありました。
 男性使用人を監督するのが執事。
 女性使用人を監督するのが家政婦。
 執事と家政婦が、使用人の採用、免職も決定しました。
 
 侍女は女性使用人の中でも別格で、執事、家政婦と並ぶ、上級使用人とみなされました。
 ですから、女性使用人の中で唯一、家政婦の監督を受けませんでしたし、家政婦からクビを言い渡されることもありませんでした。
 そして、ほかの使用人たちが使用人の部屋で食事をする間、侍女は家政婦、執事とともに、家政婦の部屋(パントリー)で食事をとることを許されました。
 けれども、侍女は一般的に若い女性ということになっていたので、歳をとると、年齢だけを理由にクビになることもありえたのです。
 
 できれば侍女はフランス人のほうがいい、と言われていました。
 が、それがムリな場合は、フランス風に名前を呼ぶことで、雰囲気を出したらしい。
 例 ジェーンをジャネットと呼ぶ。

<Lant street ラント街>

 テムズ河南のサザークの南、バラ地区にあります。
 1800年より少し前にできました。地名は土地所有者に由来します。
 あのディケンズは、両親がマーシャルシー債務者監獄にはいっていた少年時代、ここに下宿していました。
 ラント街は裏通りで、当時は下宿が多かったのです。ほとんどの家が家具つきの部屋を貸していました。
 ラント街の住人は入れかわりが激しく、四季支払日のあたりになると、夜逃げが続出しました。
 税金の取り立てもほぼ不可能。どーゆーところか、よくわかりますね。
 ロンドンに行った時に、ここにも行ってみたかったのですが、用もないのにふらふらすると危ない、と言われました。
 特に夜は本当にやばいらしい。

<laudanum アヘンチンキ>

 19世紀、アヘンは睡眠薬、鎮静剤としてごく一般的に使われる薬でした。
 このアヘンをアルコール水にとかし、香辛料をくわえたのが、アヘンチンキです。
 街の薬屋や食料雑貨店で、20〜25滴が1ペニー程度で買える、万能常備薬でした。
 オロナインとか、赤チンとか、正露丸とか、まあ、そんな感覚ですね。
 店主はおつかいに来た子供にも、簡単に売ってくれました。

 このアヘンチンキはごく気軽に使用され、常用されました。
 飲み物に何滴か落として、薄めて飲んだようです。
 むずかる赤ん坊に飲ませて眠らせることも、日常でした。
 もちろん、中毒したり死亡する犠牲者も多く出ました。
 ですが、この時代、アヘン中毒はごくごく普通のことだったのです。

<lock 錠前>

 19世紀前半は、銀のスプーン一本でも家の中にあろうものなら、強盗に殺されてもしかたがない、というほど、物騒な時代でした。
 けれども、その被害が1970年代までに約3分の1にまで減ったのは、錠前の発達のおかげです。
 そして、この錠前の代名詞ともなったのが、チャブ社の錠前でした。
 王室御用達、イングランド銀行御用達となり、その名声と信頼は高まりました。
 1851年の万国博覧会にも出品していますが、この時にはグランプリをアメリカのホッブス社に奪われ、さらに会場で錠前のひとつがピッキングされてしまうという、屈辱をなめることになります。
 が、会場を訪れていた警視総監が「私の27年に及ぶ経験にてらしてみても、いまだかつてチャブ社の錠前を破って盗みをはたらいた者はいない」と証言してくれたことで、名誉は保たれます。
 1855年、ロンドンにはじめて郵便ポストが設置されたときにも、チャブ社の錠前でした。
 現在も、やはりチャブ社の錠前が使われています。

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