日本でも、「銀座」「浅草」「渋谷」と、イメージのはっきりした地名があります。
このベスナルグリーンは、ビクトリア時代、ロンドンの最貧地区でした。
要するに、スラム街です。
こんなふうになってしまう200年前は、裕福な人々に好まれる風光明美な土地でしたが、ビクトリア時代には、人口のほぼ半分が貧民、という、ロンドンで最悪の貧乏率を誇りました。
路地に家や小さな工場(こうば)がびっしりと立ち並び、労働者が多数住んでいました。
環境はたいへんに悪く、池に生活排水から、屎尿から、猫犬の死体から、なにからなにまでぶちこんでしまうという、考えただけで胸が悪くなるような場所でした。
20世紀にはいって、スラム一掃計画により、この地区は改善されました。
1851年5月1日からハイドパークで開催された、万国博覧会の会場として、パクストンの設計したガラスと鉄骨の巨大な会場が、クリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれました。
入場料は月曜から木曜までが1シリング(1シリングは12ペンス)。
金曜が2シリング6ペンス。
土曜日が10シリング6ペンス。
土曜日は上流階級の入場者が多く、ゆったりと見ることができました。また、車椅子がたくさん用意され、貴婦人たちはその車椅子を使って、のんびり見物しました。
この万博のために展示品としてインドから送られたのが、かの有名なコイヌールダイヤモンドです。これは女王様に献上されました。
万博では、初の有料公衆便所が設置されました。有料でも、大好評だったそうです。
そりゃそーだ。
この時の収益で購入されたのが、サウスケンジントン博物館とアルバートホールが現在建っている土地です。このふたつはクリスタルパレスの遺産というわけですね。
あまりにも美しい建物なので、万博閉幕後にこれをつぶしてしまうのは惜しいと、ロンドン南のシデナムの丘に移築されました。
内部に大温室、ジオラマ、美術館、博物館、工芸品などの展示ブース、オーケストラ舞台などが作られ、展示ブースはショッピングモールとなり、アルコールも販売されました。
屋外の広大な庭園には大噴水や池が作られて、そのまわりに等身大の恐竜模型が設置され、人々はゴンドラに乗って、見物することができました。
これはアレですね。ディズニーランドのジャングルクルーズと汽車ぽっぽで、我々も体験できますね。
コンサートホールがとても有名で、毎土曜日の午後に40年間にわたって、クラシック音楽の演奏会が開かれました。
花火、綱渡り、ペットショー、ちゃりんこレースなど、さまざまなイベントが行われた
大人気のレジャーランドでしたが、だんだん人気にかげりが見えるようになりました。
そして1939年11月30日。事務室の一角から出火し、全焼してしまいました。
ただし、例の恐竜くんたちは無事に生き残り、いまもクリスタルパレスパークにいます。
ところで、ビクトリア女王とアルバート公(女王のだんなさまです)が中央にいらっしゃる有名な万博の記念写真がありますが、この写真でビクトリア女王のそばに東洋人のおじさんがひとり写っています。
この人は、カメラマンが写真の準備をしている時にそのへんをうろうろしていたので、
「きっと東洋からのお客様が迷っているに違いない」と、スタッフが国賓クラスの位置に案内して、写真を撮ったのでした。
でも、実はこのおじさん、中国人のお掃除おじさんかなんかだったんですね〜。
ヴィクトリア時代、ロンドンはテムズ河畔にどーんとそびえたっていた、巨大な監獄です。
どれだけデカかったかというと、監獄内部は全長3マイルもの迷宮になっており、独房の数は1200もありました。
構造は円形刑務所 パノプティコン(Panopticon)の名のとおり、中央の塔を獄舎がぐるっと取り囲むように建っています。
囚人は中央の塔から常に監視されているという無言のプレッシャーを受けるという、なかなかインケンな場所でした。
別名を監視牢と呼ばれています。
おまけに、ここの牢はすべてが独房で、沈黙も義務として課されていました。1813年に建築が始まり、1820年に完成。
当時のヨーロッパ最大の監獄です。
名は、かつてウェストミンスター寺院の水車小屋(ミル)が建っていた川岸(バンク)に由来します。
もともと干潟という悪い地盤に、こんな巨大な建物を建てるのは無理だったのですが、やっぱりというか、1837年に外壁の一部が崩壊し、ただでさえ、だだっぴろくて監視しづらい監獄だったのに、ますます監視が難しくなったのでした。
おまけに、広いせいで維持費がかかりすぎ、建物としては完全な失敗作で、これと同じ構造の監獄は、二度と作られることはありませんでした。
また、汚染された河の水のせいで、監獄内には伝染病がしょっちゅうはやり、死者が大勢でて、完成のたった2年後に、伝染病のせいで1年間の<監獄閉鎖>がおこなわれています。
どーしよーもない監獄ですね。これは実験的な施設で、死刑になる重罪犯以外の罪人に教育を与え、作業させて更正させる目的で作られた、懲治監でした。
1843年には普通の監獄になっています。1890年にとりこわされたあとに建っているのが、現在のテートギャラリーです。
19世紀、アヘンは睡眠薬、鎮静剤としてごく一般的に使われる薬でした。
このアヘンをアルコール水にとかし、香辛料をくわえたのが、アヘンチンキです。
街の薬屋や食料雑貨店で、20〜25滴が1ペニー程度で買える、万能常備薬でした。
オロナインとか、赤チンとか、正露丸とか、まあ、そんな感覚ですね。
店主はおつかいに来た子供にも、簡単に売ってくれました。このアヘンチンキはごく気軽に使用され、常用されました。
飲み物に何滴か落として、薄めて飲んだようです。
むずかる赤ん坊に飲ませて眠らせることも、日常でした。
もちろん、中毒したり死亡する犠牲者も多く出ました。
ですが、この時代、アヘン中毒はごくごく普通のことだったのです。
最新流行のファッションを版画で刷ったものが、新聞や雑誌などの付録についてきました。
塗り絵のような版画に、ぬり絵のように手で彩色された、カラーバージョンもあります。
現代で言う、ファッショングラビアですね。
これを当時のご婦人たちは参考にして、お洒落していました。
パリの最新ファッションのプレートを見て、お嬢さんたちは楽しんでいたのでしょう。
アンティークショップなどで、よく額にはいったものが売られています。
原物をわざわざ買わなくても、ファッションプレートのコレクターがたくさんサイトを作っているので、ウェブ上でいろいろ見ることができます。
が、わたしのおすすめはここ。
日本一のコレクションです。
左側にある<雑誌>のコーナーのボタンを押して、画像を楽しみましょう。
屋敷内の女性スタッフにはさまざまな階級が存在しました。
トップは家政婦。女中の採用、免職、監督を担当します。
その下が家女中。
さらに下が台所女中で、料理番のアシスタントをつとめます。
そしていちばん下に位置するのが、哀れな皿洗い女中(流し場女中)です。
その名のとおり、皿や鍋をひたすら洗い続けるのが仕事で、手はいつも荒れていました。
扱いも地位も最低で、奴隷のように働かされ、ほかの使用人からはさげすまれました。
つまり「皿洗い女中のように働かされる」という比喩が出てきたら、それは
「奴隷のように」「牛馬のように」という意味なのです。