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仕事を断る

 今回は最近のわたしの体験談です。
 みなさんの参考になるかならないかは微妙ですが、こんなことがあったんだよん、というご報告までに。

 ある日、ほとんど面識のない他社の編集者さんから「おもしろそうな本があるので、翻訳をお願いできませんか?」という依頼の電話がきました。やったー!
 とりあえず、リーディングした方のレジュメを読んで、興味があるかどうかをきかせてください、とのことで、翌朝、家にそのレジュメが届きました。
「う〜む」
 ひととおり読んで、わたしは頭をかかえました。どうしよう。
 レジュメを読んだかぎりでは、その作品の中で、とても残虐な連続殺人が起こるのですが、殺害方法が残忍非道である必然性も、連続殺人の必然性も、それどころかそもそも殺人の動機もないのです。
 要するにサイコものらしいのですが、いくらサイコだとはいえ、狂人の論理もなく、「どうせアタマがイカれてるんだから狂人ならなんでもやるだろう」という大雑把なとらえかたはひどい。思わず、ミステリなめんな、とこぶしを震わせてしまいました。
 しかし、しかしです。いまのわたしの身分はまだまだかけだし。他社から声がかかるなんて、めったにどころか、ほとんど初めての経験に近い。仕事をもらえるだけで、本当に涙が出るほどありがたいのです。
 しかもこの作者は海外ではベストセラー作家らしいし、レジュメの作品はシリーズものらしくて中村さんにずっとやってほしいみたいなこと言ってるし、「はい、やります」と返事をすれば、まとまった収入が約束されるのは確実です。
 だ〜け〜ど〜。
 それから三日間、わたしは悩んで悩んで悩みぬきました。マジで浅羽お姉さまに電話しちゃおうか、松浦さんに相談しようか、と何度も思いました。デビューしたての頃に先輩からいただいたアドバイスを頭の中で反芻もしました。
「仕事は断ってはだめ。なんでもやらなくちゃ」
「なんでもかんでも引き受けてはだめ。最初に態度をびしっと決めておけば、この人はうるさい人だ、となめられなくなるから」
 どっちじゃ〜! しかもこのふたつのアドバイスは同じ先輩がくれたんですよね。うわ〜ん、どうしていいかわかんないよ〜。
 おなかが痛くなるまで悩んだ末、ついに心を決めたわたしは編集部に電話をかけました。
「あの〜、レジュメを読んだんですけど、よくわからなかったので、原作を自分で読んでみたいんですが」
 そう。仮にあらすじがぱーぷりんでも、ひょっとすると文章自体に魅力があるかもしれないし、もしかすると、わたしがこだわっている猟奇殺人の必然性もレジュメになかっただけかもしれないし、とりあえず実際に原作を読んでから決めよう、とようやく思いついた(遅いよ)のです。
 そして宅急便で届いた原作は600枚ありました。よろり。
 がんばって読んだ結果は、レジュメのあらすじは正確で、本当に作者がただショッキングな話題作りのためだけに何の必然性もなく、これでもかと残酷な描写を並べているだけだと確認できただけでした。ああ〜やっぱりだめじゃん。しかも、この作者、文章も構成もへただしさ。
 わたしは考えました。とりあえず、いまのわたしの状況を冷静に把握してみよう。
 一応、あと2、3年分の仕事は持っている。企画を探そうと思えば探す方法もある。親の家に居候しているから衣食住には困らない。翻訳オンリーで生計をたてているわけではないし、いよいよとなれば、イトーヨーカドーでパートをすれば国民年金と健康保険料くらいは払えるだろう。ならば、多少は青臭いアマチュア心のわがままを通すことも、可能ではないのか。
 趣味の合わない本や、訳者にとってたいしておもしろくない本を訳すことは、プロならいくらでもあるだろうし、わたしもそんなただのより好みといった理由で仕事を断るつもりはありません。(それは本当にわがままってものでしょう)
 ですが、この作品は毒です。
 わたしはホラーもスプラッタも平気ですし、『寄生獣』や『ベルセルク』を名作だと何度も読み返しているくらいですから、残酷な表現にアレルギーがあるわけでもありません。
 けれども、ホラーと悪趣味は違います。わたしの眼には、この作品はまるで、学校のうさぎ小屋で金属バットを振り回すような悪趣味のかたまりに見えました。
 そんな毒を日本にばらまく片棒をかつぐために、あたしは翻訳の勉強をしたんじゃないやい! まして読者にお金を払わせるなんてとんでもない。
 そう思ったらふっきれました。いいや、もう。お断りしよう。それで嫌われて、この出版社から二度と声がかからなくなってもしょうがない。
 わたしは再び電話をかけて、気持ちを正直に伝えました。「何の理由もなく残酷なだけの作品って、読者を不快にさせるだけだと思うんです」
 すると編集者さんから意外な答えが返ってきました。
「おっしゃる通りだと思います」
 あれっ? よかった〜。いい人じゃん。(失礼)
「それで、別の作品があるんですが、こちらもシリーズものなんです。まだ版権はとっていないんですが、検討していただけますか? レジュメを送りますので」
「は、はい。あ、原作も一緒に送ってください」
「はいはい」
 なんだ〜。超いい人じゃん。(失礼)
 その翌日、レジュメと原作が送られてきました。
「う〜む」
 読み終わったわたしは考えこみました。
 長所はあるし、文もうまい。いかにもベストセラー作家らしく、最後まで読ませる。だけど、短所も多いし、差別表現に関わるリスクもあるし・・
 とりあえず、わたしはやってもいいと思いました。それほど心を動かされたわけではないけれども、それなりにおもしろいし、仕事として依頼されるなら断る必要もありません。
 それに、シリーズまとめて版権をとると言っているので、わたしが「はい」と答えさえすれば、この先、何年か分の仕事を楽に手に入れられることは確実です。
 が。
 わたしのひとことで、出版社は版権獲得に向けて動くわけですよね。もしもほかの出版社とオークションになったりすれば、版権料はつりあがりますよね。とすると、わたしは自分の意見に相当の責任をおうべきではないのか。
 ふっ。正直者は馬鹿を見るってことよね。
 わたしは編集部に電話をかけました。
「・・(と、長所と短所とリスクをすべてあげて説明したあとで)、ですから、あとは出版社判断だと思うんです。版権料の予算と、リスクとのかねあいになってくるのでは〜」
「中村さん、鋭い」
「へっ?」
「とても参考になりました。リーディング料を払わせていただきます」
「へっ?」
「またよろしくお願いします」
「はあ」
 受話器を置いて、しばらくぽかーんとしてしまいました。なに、いままでのは?
 まあ、2回も企画を蹴り返すマネをしたにも関わらず、また声をかけてもらえるようなので、よかったです。

健康管理

お役立ち掲示板で、投稿者さまとこんなやりとりをしました。

初めて書き込みさせて頂きます。HPいつも楽しく拝見させて頂いております。私は翻訳者の卵で、今、初の訳書の第一回目の校正を終えたところです。で、その赤入れについてプロの方のご意見をきかせて頂きたくて……。赤入れをしていると、「あっ、ここ、なおそう!」と思って書き込んでも、あとで見て、「あれっ、前のまま何も手を加えないほうがよかったんじゃ……」ということが何度も繰り返され、だんだん何がなんだかわからなくなってしまいったのですが、プロの方々もそのようなことがあるのでしょうか? 誤訳などは訂正するにしても、それ以外は半分くらいはなおさないほうがましだったのではないかと思っています。また、私はペンで書いたために、上から線で消し、それをまた消し……といったことを繰り返し、とても汚い原稿ができてしまったのですが、そういうことも普通なのでしょうか? もし、できるだけよい校正をするために、何か心掛けておられることなどがございましたら、教えて頂きたいと思い書き込みさせて頂きました。今回は、まあもう1回くらい戻ってくるだろうと思い、時間切れでそのまま提出してしまいましたが、GUEST BOOKの掲示板では中村様は12月に泣きながら校正をされたとあり、やはりプロの方は、いつも、必死で完璧というところまで、取り組まれているのだろうか、自分はもっと頑張らなければならなかったのでは……と考え込んでしまいました。短い校正時間の中で皆様がどのように取り組まれているのか、教えて頂ければ幸いです。あと、少し話はずれるのですが、一般に、校正とは、訳者と編集者がFAXやメールでやりとりしながら作業を進めるものなのでしょうか? 私の場合は、仲介会社を通してのお仕事だったために、自分が訳したものに手を入れた物がゲラとして返ってきて、それに赤を入れるというスタイルだったのですが、一般にはどういうものなのか、教えて頂ければ嬉しく存じます。

まじめなご質問に心をうたれ、すちゃらかなわたしもまじめにお答えしました。

>赤入れをしていると、「あっ、ここ、なおそう!」と思って書き込んでも、あとで見て、「あれっ、前のまま何も手を加えないほうがよかったんじゃ……」ということが何度も繰り返され、だんだん何がなんだかわからなくなってしまったのですが、プロの方々もそのようなことがあるのでしょうか?

あるある。そんなことばっかりです。だからわたしは修正用のホワイトペンとホワイトテープを使ってます。テープは便利なのですが、こまかいところが消せないので、併用したほうが原稿がきれいです。

>上から線で消し、それをまた消し……といったことを繰り返し、

それ、わたしも最初にやりました。ホワイトが途中で切れてしまって、線で消していったのですが、担当さんに「お願いだからやめて」と言われました。はっはっは。だから、いまはホワイトを常備してます。
ま、誰でもやる失敗だろ。たぶん。

12月の校正は、2回目に戻ってきたやつですね。1回目にあんなに直したのに、なぜまだこんなに直すところがあるのか〜、とがしがしペンを入れました。

>、やはりプロの方は、いつも、必死で完璧というところまで、取り組まれているのだろうか、自分はもっと頑張らなければならなかったのでは……と考え込んでしまいました。

そう思うでしょ? そうなの。その時にベストをつくさないと、あとで絶対に後悔するんです。もっと一生懸命にやればよかったって。
だから、がんばらなければならなかった、というのは正しくありません。がんばらないと自分があとで辛い思いをする、というだけです。義務というよりも選択ですね。
もちろんお金をいただいているという自覚はあるはずですから、それなりにがんばる義務はありますが、どこまでしつこくやるか、ということに関しては、義務ではなく選択だと思います。

校正のスタイルは出版社によって違うと思います。
わたしも集英社のお仕事の場合には、ゲラに書かれた鉛筆と赤ペンだけのやりとりでした。
創元には、わたしがよく遊びに行っているせいでしょうか、対面形式でゲラなおしをしたり、電話で相談しながら訳語を決めたり、ということをよくやっています。
ただ、ほかの人たちにきくと、「そんな、マンツーマンのゲラなおしなんてやったことない」という人がほとんどなので、創元方式のほうが珍しいのかも。

 と、お答えしたあとで、「なんか、この人、デビュー当時のわたしに似てるな。けっこう思い詰めるタイプみたいだから、注意しておいたほうがいいかも」と、老婆心ながら、ついでの書き込みをしました。

訳す時にはベストをつくす。
そして終わったら、すぱっと忘れてくださいね。
あとあとまで、ああすればよかった、こうすればよかった、と悩むと、体をこわします。デビュー作で、胃炎になった人、拒食症になった人を、わたしはじかに見ていますし、わたし自身、まじめに思い詰めすぎて、摂食障害になりました。
その時にベストをつくした、と胸をはって言えるなら、少々の誤訳があろうと、多少、稚拙でもかまいません。
誤訳はあとで直すことができますし、新人が最初からベテランのように訳せるはずもありません。

絶対に思い詰めないでください。終わったらさばさばと忘れることです。
体が大事ですよ。

 不安は的中していました。ああ〜、やっぱり〜。

実は、私も今の本を訳したとき、食事がとれなくなり、片耳が聞こえなくなりました。幸い耳は2日ほどで聞こえるようになりましたが、終わってからもいろいろと体を壊したまま、現在に至っています。私の場合、摂食障害まではいかず、体重も元に戻りましたが、以前中村様がデビュー2年目のころに体を壊し、治るのに2年かかったと書かれていたのを拝見させていただいて、ああ、他にもそんな方がいらっしゃるのね、よくあることなのね、あと1年半くらいかかるのね、でもあと1年半ほど経てば治るのね(治るといいな……)、なんて思っておりました。そんなわけでしたので、ゲラにどこまでくらいつけばいいのか、考えあぐねておりました。お言葉を胸に、終わったらさばさばと忘れることにします。ありがとうございました。

 肉体的な体調管理ももちろん大切なのですが、精神的な健康管理も、実はこの仕事ではかなり大事だったりします。
 わたしよりも先にデビューした人たちが、突然、10キロやせてしまったり、いきなり人前で泣き出したり、と、心のバランスを崩して体調まで崩してしまうのを、わたしは何度も見てきました。
 一度、こういうふうになると、戻るまでにかなり時間がかかりますが、必ず治りますからご安心を。
 例えて言えば、髪を切りすぎてしまったようなものです。
 髪の毛は、絶対に、すぐにもとにはもどりませんが、絶対に、もとの長さにのびます。
 それと同じです。
 あせらずに、「すぐに治らなくて当たり前」とでーんとかまえているのがよろしいです。
 わたしは胃にくるタイプなので、拒食症寸前までいきましたが、そういう時は、外食や会食がとても辛かったです。
 余談ながら、こういう拒食症ぎみになった時の外食のコツは、「料理を残してもいいんだ」と思うこと。そして、残したことがあまり目立たないものを注文します。
 うどんやラーメンのような汁物は汁でごまかせるので、いちばんらくでしたね。
 絶対にさけるべきなのは、フランス料理などのコースで出てくるもの。一人分のノルマがあからさまに見えるもの。「全部食べられるだろうか」と思うだけで、吐き気がしますから。
 たとえば、お寿司が好きなら、握りはさけて、どんぶり物にします。眼の前に「あと何個」というのが並んでいると、気分が悪くなってきたりしますから。どんぶりなら、「もう食べられないかな」と思ったら、上のネタというか刺身だけ食べて、「えへ、ごはんが多すぎたの」とかわいく残すことができます。
 逆に、居酒屋ふうに小皿に好きなだけ取って食べたり、鍋物をつついたりするのは、自分のノルマというものがないので、食べやすいです。
 事情を知っている友達と外食する時には、たとえばピザなどを人数分よりもひとり分少なく注文して、全員で分け合って食べます。こうすれば、自分がほとんど食べなくても問題ないし、意外と食が進んだら、デザートやお茶で調節すればいいのです。
 まあ、外食できるようになるまでも、かなり時間はかかったんですけどね。
 水を飲むどころか見るだけで吐き気がする、という状態になって、自宅での食事さえできなくなりかけたのですが、「吐いてもいいや。吐いたら、あたしが掃除すればいいだけじゃん」と思ったら、食べられるようになりました。
 それまでは、「吐いたらいけない」と思っていたので、そのせいでかえって緊張して食べられなかったんでしょう。

 デビュー作を訳し始めた時、わたしは最初の1ページ目に3日もかかってしまい、「もうだめだ。あたしなんてプロになれないんだ」と、毎晩おふろの中で泣いてました。
 出だしのスタイルがなかなか決まらず、何度も何度も消しては書き、消しては書きしていたからなのですが、こういうわたしのような思いつめかたをするあなた。危険です。

 そのデビュー作が店頭に並ぶころ、わたしはすっかり精神状態がおかしくなっていました。自分でも普通じゃない、とわかっていましたが、とにかく感情の起伏が激しくなって、自分でもおさえられなかったのです。
 書評で酷評されたらどうしよう、という不安が、自分の中で勝手にどんどん増幅していたのですね。書店で自分の訳書を見ると、誇張でなく吐き気とめまいにおそわれるようになりました。
 しかしですね。いまなら言えます。そんな他人の眼や評判を気にするから、心を病んで体を壊すんです。
 本を作る時に、編集さん、校閲さんがしっかりチェックしてくれている。自分も精一杯のことをやった。
 そう思って、堂々としていればいいんです。
 まちがいがあれば、あとでなおすことはできるのですから。

 この「デビュー・クライシス」を乗り越えたあとも、まだまだ危険は残っています。
 次にやばいのは、不健康な内容の原作のキャラにどっぷり感情移入してしまった場合です。
 ・・あたしだよ、あたし。3ヶ月くらい、ウツ状態だったよ。『半身』を訳したあと。
 しかし、これは一種の職業病として、ある程度はしかたのないことなんですね〜。これを乗り切るためには、危険性を常に自覚し続けるしかありません。
「あ、いま、気分的にかなり参っている」「すごく肩がこって辛い」、そう思ったら、気分転換などでストレスを上手に逃がしてください。
 ためこむと暴発して、本当に肉体の病気になってしまうから〜。

 また、まじめな人は、ゲラの校正のたびにおちこんだりします。「こんなになおすところがあるなんて、自分はなんてへたなんだろう。いま読み返すと、本当にひどいな。どうして最初からうまく訳せなかったんだろう」なんてね。
 こうして何度も、何度も,何度もなおすたびに「どうしてうまくできなかったんだろう」「自分はだめだ」とどんどん自己嫌悪におちいっていくあなた。危険です。
 いいですか。あなたは1冊の本と何ヶ月もつきあってきたんです。第1章を訳したころよりも、ずっとその本に対する理解力は深まっているはずです。数ヶ月前よりも格段に進歩したあなたが、むかしの訳文を見たら、そりゃ当然「なんじゃ、こりゃ〜!」と思うはずですし、思わないほうがむしろ問題です。進歩してないってことだからね。
「自分はこんなに進歩したんだ」「たった数ヶ月で、翻訳がうまくなったってことだな」と考えるようにしてください。とにかく自己嫌悪で自分を攻撃するのは絶対にやめてくださいね。
 まあ、そう言っているわたし自身、ゲラなおしのたびに「死にたい」と思ってしまうのですが。

 とりあえず、わたしは自分の心と体を守るために、書評は読まないことにしています。わたしの性格では、ほめられていれば天狗になるだけだし、けなされていれば、拒食症に逆戻りするだけですからね〜。(たまに親切な友達が「ほめられている書評」のコピーを渡してくれるのはありがたくいただいて、ちゃんとスクラップしています)当然、ネットで評判を確かめることもしません。
 もちろん、精神的に強い同業者は、あらゆる書評を検索し、チェックしまくっていますが、わたしには無理です。そんなことしたら、仕事ができなくなっちゃうよ。ほら。わたしって繊細だから〜。(単にチキンなだけとも言う)

 また、自律神経失調症は、おおざっぱに言うと、「時差ぼけをこじらせたもの」に近いので、夜型だった生活を朝型、もしくは昼型になおしました。いまも、夜は仕事をしません。
 夜の方が集中できる、というかたも多いでしょうが、体調を崩してしまったら、朝型に切り替えて、必ず朝日を浴びるようにし、さらに朝の光をあびながら散歩をする、という習慣を取り入れると、だんだん体調が戻ってきます。
 わたしはビタミンCとカルシウムのサプリメントを飲み、朝日を浴び、夜中に仕事をしない、という生活サイクルに切り替えることで、なんとかもとの体に戻りました。

 なんだか、今回は(も?)まとまりがありませんが、要するに、「自分で自分を追いつめて体調を崩さないように気をつけてね」ということを言いたかったのでした。
 ある意味、職業病なので、本当に注意してください。

註釈


 入れなくても読者に不親切だし、入れすぎると(おいおいおい、この訳者、こんなことも知らないのかよ、物知らずだな〜)と思われそうだし、なかなか兼ね合いが難しいのが註釈。
 わたしはわりと入れます。トリビアはあったほうがおもしろいから〜。
 まあ、これは訳者の考え方しだいですし、カッコが多くても流れをぶったぎってしまうし。迷うところですね。
 註釈の入れ方にはいろいろあります。定番はカッコでくくるやり方です。

「ちょっとセインズブリ(註、英国のスーパーマーケット)に行ってくるね」

 しかし、イギリス旅行者は増えに増え、セインズブリ(これもいろいろなカタカナ表記はありますが)がなんたるかを知っている人は多いはず。
 だから、うかつにこういう註釈を入れると、訳者が物知らずっぽく見られるのが、ちょっと悲しい。違うのよ〜、ちゃんと知ってるのよ〜。
 さて、そういう誤解をやや回避し、さらに流れをよくする方法として使われるのがルビです。

「ちょっとスーパー(ルビ、セインズブリ)に行ってくるね」
「ちょっとセインズブリ(ルビ、スーパー)に行ってくるね」

 こうすると、セインズブリを知ってる人も知らない人も、さらっと読めます。

 次はその応用編です。
 まず、落ち着いて、まわりの文の中を探します。同じ単語はないかな〜。(代名詞でも可)。
 もしもそれがあって、うまく利用できれば、註釈らしい註釈を入れずに。実は註釈を入れることができます。

「ちょっとスーパーに行ってくるね」(中略)久しぶりに行ったセインズブリは混んでいた。
「ちょっとセインズブリに行ってくるね」(中略)久しぶりに行ったスーパーは混んでいた。

 というように、片方を普通名詞に置き換えてしまうのです。どこでも使える手段ではありませんが、覚えておくと便利。
 これをもう少し応用すると、こんなふうにもできます。

「ちょっと買い物に行ってくるね」(中略)久しぶりに行ったセインズブリは混んでいた。

 さて、註釈は必要ない。要するに買い物に行ったことがわかればいい、と判断する場合もあります。そういう時には思い切って全部、普通名詞に変えてしまいます。

「ちょっと買い物に行ってくるね」(中略)久しぶりに行ったスーパーは混んでいた。

 で、中村はどの方法を使ってるのかね、とお思いでしょうが、わたしは全部使っています。ケースバイケースで。

 地の文に説明文を入れることもあります。わたしがよくやるのはコージー物における食べ物の説明です。

「桃のシロップ煮にバニラアイスクリームとラズベリーソースをとろりとかけたピーチメルバ」
とやると、おいしそうでしょ?
「ピーチメルバ(註、シロップで煮た半割の桃をバニラアイスクリームにそえて、ラズベリーソースをかけたデザート)」よりも。
 ただし、誤解しないでくださいね。毎回、こういう表記をするわけではありません。
 
 ところで、註を入れる入れないのボーダーラインはどこだろう、と悩むこともあるでしょう。迷った場合は読者層を考えます。
 年齢や性別によって、得意なボキャブラリーは違いますし、ミステリやSFなど特殊ジャンルのマニアはそれぞれの専門用語にやたら詳しい。
 わたし、とあるミステリの原稿で一度、「モルグ(註、死体置き場のこと)」という註釈を見たことがあります。
 それは〜。いらないと思う。

 実際の経験で言うと、わたしはこれでも女なので、<ダブルウエディングリング><デコパージュ>といった単語に註をつけることなど思いもよらなかったのですが、歴代の担当さん(男性ばかり)は註を入れて、ゲラを返してきました。
 なるほどね〜。手芸用語は男の人にとって、謎の言葉なのか。
 で、中村がどうしたかと言うと、せっかくつけられた註を全部はずしました。なぜならコージー物だったから。読者層を考え、必要ないと判断しました。
 しかし、逆の場合も。わたしが入れた註釈を、「これはいらないのでは」とはずされたこともありました。主にメカニックやコンピュータ関連。だって〜、機械苦手だし〜、本当に知らなかったんだもん。
 訳者と編集者が男性と女性だと、両方の眼でチェックできるのでありがたいです。
 さて、さきほどの手芸用語の註釈ですが、男性読者も多いだろうな,という場合には、たぶんいれると思います。「切り貼り細工(ルビ、デコパージュ)」とか、そんな感じで。

 ですから、どんな単語に註釈をつければいいか、というのが基準ではないのです。
 この読者層に対しては、どんな註釈をつけるべきか、というのを基準にすると、迷わずにすみます。
 ゲラの時点で編集者が註釈を増やす事もありますが、それも全部受け入れるのではなく、「なるほど、これは必要だ」「いや、これは必要ない」と取捨選択してかまいません。

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