ルールズ

 せっかくロンドンに行くのだから、一度くらい、由緒正しい有名店のローストビーフなるものを食してみたい。
 ガイドブックを開いて、わたしは迷った。<シンプソンズ>にしようか。<ルールズ>にしようか。どちらもガイドブックには必ずのっていて、ティケンズやドイルも通った高級店などと、きらきらしい冠がついている。
 悩みに悩んだ末に、<ルールズ>を選んだ。
<シンプソンズ>はかつて一階が紳士専用だったらしい。二階に案内されてしまったら、わざわざ高いお金を払う意味がなくなる。その点、<ルールズ>は心配ないらしい。
 日本から予約を入れたあとで、セイヤーズの作品中にピーター卿が<ルールズ>に行くシーンがあることを知った。よおーし! 思わずガッツポーズを取るわたし。
 当日の晩、母とドレスアップしてロンドン最古の高級レストランに足を踏み入れる。
 ガイドブックの写真どおり、壁にはびっしり肖像画が。古めかしい黒っぽい店内は、シャンデリアのやわらかな光にぼうっとかすんで見える。
 ああ、ここにピーター卿も来たのね。うっとり。
「でもさ、思ったほど高級レストランって感じじゃないね」
 わたしが言うと、母もうなずいた。
「食堂って感じだね」
 しーんとした、どこか緊張感漂う優雅な空間ではなく、わいわい談笑する人々と、きびきび走り回る給仕たちでいっぱいの、活気あるビストロ風。観察すると、ビジネスマンが多いようだ。日本人も何組かいるけれど、みんなビジネスで来ているみたい。
 会社帰りのスーツ姿程度で、ごく気軽にはいれます。日本語メニューなし。
 注文したローストビーフは日本人に優しい味でおいしかった。ヨークシャープディングのでかさに腰をぬかしそうになったけれども、「ナンみたい」と喜んで食べた。つけあわせのじゃがいもグラタンはほっぺが落ちそうだった。
 ただ、わたしはスケジュールの組み方を失敗していた。
 この日はロンドン入りしてまだ二日目。
 わたしたちの胃袋はこってりした牛肉を受け止めつつ、「あんたたち、いま何時か知ってる?!」と叫んでいた。日本では夜中の2時である。
「ダメだ。もう食べられん」
 用心して前菜もとらなかったというのに、時差ボケしているおなかは許してくれない。しまったー。ここまでは考えていなかったー。
「と、とにかく、肉を食べなければ」
「そうそうイモはいいから」
 後半は罰ゲーム気分でできるかぎりつめこみ、デザートも食べずによろよろと店を出た。
 うう。優雅にマダムごっこをするはずだったのに。しかし、貴重な教訓を得ることはでいた。
 時差ボケがひどいうちに高級レストランに行くのは、実にもったいないことである。

クリスティー(ゆかり)のお茶とホームズ(ゆかり)の劇場

 少々トウがたったとはいえ、わたしも母も女の子である。英国で優雅なアフタヌーンティーを! というのは、やはり少女の夢なんである。
 とある翻訳家たちの集まりで、わたしが「イギリスに行ってみたい」と行ったら、全員に「やめなよ。あんな食い物のまずい国」ととめられた。
「でもー、フィッシュ&チップスはとてもおいしいと・・」
「だめだめ! あれは回転率の問題なんだよ。どんどん売れる店のは揚げたてだからうまいけど、ちょっと冷めたらもう食えない」
「で、でもー、有名ホテルのアフタヌーンティーはとてもおいしいと・・」
 全員が無言で手をばたばたと振った。男性のみならず女性まで。
 しかし、なにごとも自分自身で確認してみなければわからないではないか。
 わたしは皆の忠告を黙殺し、頑固にクリスティーの定宿、<ブラウンズホテル>のアフタヌーンティーを予約して、母とホテルに向かった。
 ラウンジのゆったりしたソファに腰を落ち着け、サンドイッチを食べ、お菓子をつまみ、お茶をいただく。
「・・」
「・・」
 妙に居心地が悪いのは、超高級ホテルだからではない。客の8割が日本の女子大生二人組だったからである。これじゃ日本にいるのとかわらない。
 食べ物はまずいというわけではないが、パンには香草が焼きこまれ、スコーンは洗練した味に整えられ、妙に凝った味がストレートに美味とは思えない。もっと素朴で家庭的な味つけのほうが英国お菓子はおいしい。
「一度経験するのはいいけど、もういいね」という母の言葉にわたしも頷いた。
 しかし、ひとり5000円近くかかったこの取材の成果はあった。
 目的が「クリスティ−の定宿に来たという実感を味わい、ちょっぴり贅沢な気分にひたり、アフタヌーンティーのラウンジを見学する」だけなら、タダでできる裏技を発見したのだ。
 トイレを借りるのである。
 ご婦人たち(といっても、ほとんど日本の女子大生だが)がお茶をいただくラウンジにすーっとはいって、階段をおりたところが化粧室。
 広めの部屋にソファが置かれ、テーブルに雑誌まで用意されている。トイレなのか、ここ? その奥に個室がある。
 洗面台の上には白い太巻きのようなものが山盛り積んである。これは全部ハンドタオルだ。洗った手を拭き、使ったタオルは床のバスケットにぽいと入れる。ああ、贅沢。
 お手軽に<ブラウンズホテル>の泊まり客気分を味わえるこの裏技。機会があれば、お試しください。

 さて、わたしも母もおのぼりさんらしく、ロンドンのミュージカルを見たい! という夢があった。
 言葉がわからなくてもたのしめそうな演目を、ということで、わたしは<ライオンキング>を選んだ。
 成田に行く直前、ふと「まさかこの劇場がミステリに関係してるってことはないよね」と胸がさわぎ、とりあえずホームズ関係のガイドブックを手にとった。
<ライオンキング>が挙行される<ライシーアムシアター>は、<四つの署名>でホームズが待ち合わせに使った場所だった。
 ・・ロンドンって、ホームズに関係していない場所はないの?
 嬉しいけれど、なにかストーカーにつけまわされている気分でもある。
 観劇当日。少し早めに劇場前についたわたしは、「待ち合わせは左から3番目の」とつぶやきながら、ホームズが待ち合わせに使った柱をぺちぺち叩いた。
 この柱は当時のものが残されているそうな。ガイドブックの写真ではギリシャの神殿風の柱が石のように見えたが、実は木でできている。「へー。木なんだー」と、柱をさするわたしのまわりから、なぜか人々は離れて行った。いいのだ。気にしない。してはいけない。
 ロンドンで<ライシーアムシアター> に行く機会があったら、入場前にぜひ一度、柱をなでさすりしませう。ホームズ様と待ち合わせしている気分にひたれます。

翻訳家のひよこ