ひとり旅なんてへっちゃらだよーん、という人ならともかく、たいていの人は、ふたり以上で旅行に行きたいものだろう。
となると、海外でミステリゆかりの地おへんろさん旅行をするには、なにより先に、そのスジの相棒を見つけなければならない。なんのへんてつもない空き地や、ばばっちいただの杭を見て、いっしょに喜んでくれる仲間は、なかなか身近にいないものだ。
先頃、母とふたりでロンドンに行ってきた。母は、ホームズやポワロのテレビドラマは好きだけれど、カタカナが多い翻訳ものはあまり読みたくない、という、実にまっとうな日本人のカガミである。
旅行直前に、若竹七海さんの「英国ミステリ道中ひざくりげ」を読んで、ひどくうらやましくなったわたしだが、ふと母が喜びそうな場所を回るだけでも、けっこうなミステリ散歩になることに気づいた。
それどころか、気軽には友達を誘いづらいちょっとお金のかかる場所も、母といっしょのほうがかえって行きやすいではないか。
なんのへんてつもない家族旅行を、プチ豪華なミステリ旅行に!
計画をたててみてわかったのだが、まったくミステリに興味がない相手とでも、ちょいとマニアな散歩はけっこうできてしまうのである。特にロンドンでは。
今回の旅でも、母は知らずにミステリポイントをたくさん回っている。パークレーン・シェラトン・ホテル ピーター卿のフラットと同じ住所に建つパークレーン・ホテルには、ピーター卿ゆかりのスイートルームがあって、宿泊客がいなければ気軽に見学できるらしい。
という情報を「英国ミステリ道中ひざくりげ」で仕入れたわたしは、ここも目的地に加えることにした。
写真をじっくり観察して、「むむ、このSマークは間違いなくシェラトンのS」とにんまりする。
超高級ホテル、シェラトンのスイートルーム見学。しかもタダ(たぶん)。母は絶対、気に入るはずだ。
しかし、この「見学できます」情報を鵜のみにしてよいものか。
ここにはあくまで伝聞でのみ書かれている。元ネタは1998年発行の「ワールドミステリーツアー」だ。
やはりたしかめておくべきであろう。
わたしは生真面目に、パークレーン・シェラトンの宿泊予約係あてに、「そちらにピーター卿のスイートがあるとお聞きしましたが、よろしければ見学させていただけないでしょうか」という主旨のメールを、たどたどしい英語で書いて出した。
翌日、実に丁寧なメールが返ってきた。
「喜んで御案内いたします。ホテル内のほかの施設も、ぜひ御覧になってください。ただし、この日とこの日は宿泊の御予約がはいっております(えー! 泊まる人がいるんだ)。見学ご希望の前日に一度、お電話で御確認くださいませ」
やったー!
しかし、すなおに喜ぶことはできなかった。
「うう、電話か・・」
考えるだけでおなかが痛くなる。電話の英会話なんて初めてだ。
まあ、いい。とにかく見学できることは確認した。いざ行かん、ロンドンへ!ロンドンのホテルのチェックインしてすぐ、わたしは震える手で公衆電話にコインを落とした。
「あのー、日本からメールを出した中村という者で、ピーター卿のスイートを見せてほし・・」
「ああ! イエス、イエス、イエス!」
なんという幸運。電話に出たのは、メールの返事をくれた人だった。
「あいにく今日は部屋がふさがっていますけれど、明日なら大丈夫ですよ。四時のお約束ということでいかがでしょう?」
「は、はい。四時にうかがいます」
よっしゃあ。電話の初英会話、成功である。
翌日、ホームズ博物館を出てパークレーン・ホテルをめざしつつ、わたしはこの旅が地図を片手に歩き回るミステリ行脚でなくて本当によかった、としみじみ思っていた。
とにかく、方向音痴なのだ。
地下鉄のベイカーストリート駅を出てホームズ博物館に行く正しい道を見つけるまでに20分かかっている。しかも地図を握りしめたまま。結局、たどりつくことができたのも、カフェでくつろぐ地元民らしいお姉ちゃんに道をたずねたからだ。
どれだけひどいかわかりますね。
奇跡的に迷子にならず、たどりついたパークレーン・ホテルは、一瞬ひるんでしまうほど威風堂々たる門構えだった。豪華でレトロなラウンジにも高級感が漂っている。
おそるおそるフロントに近づいて、返信メールのプリントアウトを差し出すと、係の女性はしげしげとそれを読んで、「アポイントを取っていらしたの? 宿泊でなくて、部屋を見るだけ?」と不審そうに言い、奥にはいっていった。
あ、あやしまれてる。アポなしで来たらどうなってたんだろう。それとも、わざわざアポを取ってきたからあやしいのか?
悩むわたしの前にあらわれたのは、すらりとした陽気な美人だった。「ようこそ!」と大歓迎してくれたものの、「どこでこの部屋のことをお知りになったの?」と不思議そうにきいてきた。
「日本のミステリファンの間ではとても有名(たぶん)です。いま、日本ではセイヤーズがどんどん翻訳されていて、大人気なんです」
「まあ。じゃあ、その有名な部屋に御案内しましょう」
あとをついていきながら、わたしは首をひねった。ひょっとして、見学を申し出たのはわたしが初めて? いやいや、そんなはずはないでしょ。こんなに有名(たぶん)なんだから。
2階のいちばん奥のドアに「ピーター・ウィムジイ卿スイート」なるプレートがかかっていた。おお、ここか。
ばあーん、と扉が開くと、そこに広がるのはヴィクトリアンな世界・・ではなかった。
モダンなインテリア。あれーっ? あれ、あれ、ピーター卿の部屋じゃないの?
まず、ドアをはいったところが、各部屋に通じる扉がある小部屋。
はいって右手がリビングだ。お、暖炉もある。壁にはアンティークっぽい絵が飾られているけれども、ほかの調度品はモダンで、雰囲気はわりと普通の客室だ。
その隣が書斎。ゆったりしたデスクと椅子のそばに、革装の本がずらっと(ピーター卿とは関係のない本もたくさん)並び、古い地図も飾られていてなかなかいい感じである。
いちばん左が寝室と広いバスルーム。天涯つきのベッドはひろびろとして、ゴージャスではあるのだが、ピーター卿とは全然イメージがあわない。
全体的に爽やかな感じがするのは、ブルーで統一されているからだろうか。
うえーん。苦労して来たのに、ピーター卿の部屋って実感がわかないー。
少しがっかりして窓の外に眼をやると、大きな緑の公園が見えた。
「あっ、グリーンパーク!」
早速、バルコニーに出させてもらう。ピーター卿のフラットの住所で2階から眺めるのだから、すくなくともこの景色だけは本物だ。
「わーい、わーい、ピーター卿も見た景色だー!」
はしゃいでバルコニーを走り回るわたし。ピーター卿はこのグリーンパークを見ながら、毎日、朝ごはんを食べていたのだ。
方向音痴の言うことだからあてにならないけれど、通路のどんづまりにある客室で、ドアのいちばん奥がバルコニーということは、この住所の2階からグリーンパークを真正面から見られるのは、ひょっとしてここだけなのでは。
「今度はぜひ泊まりにいらしてください」にこやかに見送られて、母とわたしはパークレーン・シェラトン・ホテルをあとにした。
はい。きっと泊まりに来ます。お金持ちになったら。