9月6日

 ロンドン最終日。
 やっと地下鉄からホテルまでの道を覚えたと思ったら、もう終わりか〜。
 この日は朝いちばんにロンドン塔に向かった。いつもどおり、6時に起床、7時に朝食、食後すぐに日本に電話をかけ、8時前にホテルを出た。
 当然、チケットブースは開いていなかった。それでも並んでいる人はけっこういる。
 ようやく列が動き出したが、なかなか進まない。いったい何に時間をくっているのだ、といらついて、首を伸ばして見た。
 それは窓口のお姉ちゃんではなく、我々のせいだった。
 わたしたちの前にいるのは、ドイツ語しかしゃべれない観光客。その前にるのは、まったく英語の話せないフランス人。さらに前ではイタリア人が身ぶり手ぶりでコミュニケートしている。
 窓口のお姉ちゃん、一生懸命にチケットの種類の説明をしている。
「うーむ。この人たちのあとにひかえているのは日本人か」かわいそーに。
 しかし、そりゃそうだ。ロンドンのこんな有名な観光名所だもの。チケットブースが開く前から並んでいるのは外国人のおのぼりさんくらいなものだろう。
 実は、わたしはロンドン塔の広さをなめていた。
 さらに、階段の数の多さをよみあやまっていた。
 だから、ロンドン塔とタワーブリッジをひょいひょいっと回って、おひるを食べたら、セントポール寺院と、ロンドン博物館と、あともうひとつくらい寄れるかな、なんて考えていた。
 午前中いっぱい、ロンドン塔の中を歩き回された母は、もう今日の観光はおしまいにしたいと言い出した。帰って昼寝をすると。
「で、でもさ。今日は高級ホテルのアフタヌーンティーを予約してあるから」お母さん、たのしみにしてたでしょ、と言っても、眼が死んでいる。
 しょうがない。わたしは切り札をだすことにした。
「じゃあ、時間まで買い物しよう。三越に行きたいって言ってたじゃん」
 母はすたすたと歩き出した。

 ロンドン三越でいちばん充実しているのは書店のような気がした。「うわー、なんでこんな美少女系おたコミックがやまほど」ぐるっと見て回ったが、まあまあの品揃えだと思う。
 翻訳ミステリのコーナーは、シャーロックホームズ関係がぶっちぎりの強さを見せていた。なんなんでしょね。ロンドンを訪ねた人が読みたくなるのかな。
 バッグや服をざっと見た派はは、何も買いたいものがなかったらしく、わたしのあとについて雑貨コーナーに来たが、そこで突然、声をあげた。
「ほら、チーキーがいる!」
「えっ、またクマ買うの」
「あれ、ハロッズになかった種類でしょう」
「そりゃそうだけどさ」
 わたしはクマに顔を近づけた。そして言った。
「これは今年の、エリザベス女王戴冠50周年記念限定ベアだね」
「だったら、今年ロンドンに来て、バッキンガムを見た記念になるよ」
「そだね」
 こうして、またぶらさげるクマを一匹増やし、わたしたちは三越を出た。
「まだ時間があるから、すぐ近くのフォトナム&メイソンに行ってみよう」
 重厚な建物の中は日本人だらけだった。みんな考えることは同じらしい。
「紅茶買う?」
「んー、日本でもけっこう安く買えるからねえ」
「かさばるし邪魔だから、最後にお金が余ったら買おうか」
 そうそう。クマ3匹いるからね。

 ロンドン最後の日はゴージャスに奥様ごっこを楽しむ、ということにしていた。
 その第1弾は、「高級ホテルで優雅なアフタヌーンティーだった。しかし。
 ゆったりしたソファに身をまかせて、お茶とお菓子を楽しみながら、2時間ほどだらだらする、という贅沢を体験しに来たのよ、と説明しても、母は「この値段は高すぎる」「こんなにたくさんお菓子はいらない」と、現実定なコメントをする。
「でも、ほら、豪華でしょ」と強調しても、うーん、といまいち不満げだ。
 あのね、お母さん。どこに行ってもバッキンガム宮殿と比較するのはやめてちょうだい。
 アレに勝てるところはあまりないんだからね。
 結局、ここで大喜びしていたのはわたしだけで、奥様の反応はうすかった。
 おかしーなー。企画失敗か?

 だがしかし。第2弾がある。こっちは大丈夫でしょ。
 部屋に戻って昼寝をし、翌朝すぐにたてるように荷造りをすませてから、ドレスアップして外に出た。
 ホテルのドアマンにタクシーをひろってもらうとチップを渡さなければならない(と言われた)のだが、わたしはここに泊まった初日に、まわりをよく観察していた。
「このへん、ホテルがかたまって建ってるでしょ。ちょっと外に出ると、タクシーだらけだよ。ロンドンのタクシーは安全だっていうから、自力でつかまえよう」
 パンプスの足でちょこちょこと道に出たとたん、うちのホテルの前で客をおろしているタクシーを見つけた。
 さっそくとめて、握りしめていたパンフレットの丸で囲んだ部分を指で示す。目的地の名前が難しくて、発音に自信がなかったのだった。
 運転手のお兄ちゃんは「ライオンキング見たいの? オッケー」と、にっこり笑った。
 そう。最後の夜は「ロンドンでミュージカルを見よう!」という大ネタを用意していたのである。もちろんチケットは日本で買ってある。
 翌日はパリまでの移動日で、昼の11時にロビー集合(言い忘れたが、これはフリーツアーだった)だから、遅くまで遊んでも大丈夫だ。
 劇場に着いたわたしたちは、まだ少し時間があったので、近くでひまをつぶすことにした。えーと、このへんの名所というと、
「コベントガーデンがある」わたしは地図をにらんで言った。
「行ってみようか」
 迷子にならないように、目印を頭にたたきこみながら、そろそろと歩いていったが、この短い滞在の間に、こんな雰囲気の場所に来たことがなかった、と気づいた。新宿、渋谷によく似ている。
「夕方だからかもしれないけどさ、なんか恐いね」
「いままで観光客しかいない場所ばっかりだったからねえ」
 もう少し、地元の人も行くような場所に行けばよかったな、と思ったが、まあ、ロンドンは超初心者なのだ。次回、もう少しがんばることにしよう。
 それに今夜のミュージカルには、地元の人もたくさん来るはずである。
 劇場の中には、いかにも地元民らしい人たちが大勢来ていた。プログラムがディズニーアニメなだけに子供も多い。
 ライオンキング自体は「わざわざこれを見るためだけにロンドンに来る」ほどではなかったが、観客が日本とは全然違うので、それが楽しかった。
 すばらしい歌や演技のたびに、いっせいに口笛が鳴らされ、拍手がわきおこる。
 この舞台と客席との一体感は、日本の大劇場では味わえないものだ。どうも、日本では客がかしこまりすぎているような気がする。
 そうかー。ミュージカルってこういう庶民的なものなんだー。
 母も劇場の雰囲気を存分に楽しんだらしく、満足げだった。
 芝居が終わり、客がいっせいに吐き出された直後では、タクシーはつかまらないんじゃないか、と思っていたが、びっくりするほど空車がばんばん来る。
 タクシーも芝居がはねる時間を狙って、押し寄せて来ているに違いない。
 わたしたちのホテルが実にいい場所にあったために、ライトアップされたビッグベンや、ウェストミンスター寺院のそばを、走り抜けることになった。
 そういえば、いつも日が暮れる前にホテルに帰っていたから、夜景を見るのは初めてだ。母、豪華な夜景をとても喜ぶ。 
 おーっほっほ。偶然とはいえ、どたんばでロンドン・イルミネーション・ナイトツアーもやってしまうとは。あたしってツアコンの才能あるかも。
 一瞬、胸を張ったが、ふとだいじなことを思い出した。
「晩ごはんは?」
 かくして、最後まで優雅に終わると思えたロンドン最終日は、ホテルそなえつけのグラスにあけたレトルト粥と、ティーカップにつくったインスタントみそ汁で、幕を閉じるのである。

翻訳家のひよこ