9月7日

 いよいよロンドンをたってパリにむかう。
 実は、わたしはパリに行くのが非常に気が重かった。
 英語なら、まあ、日常会話にこまる程度にはしゃべれるのだが、わたしのフランス語会話は完全に消費期限がきれている。あまりにみっともなくて、大学のフランス語科を卒業しているとは、口が裂けても言えやしない。
 さらに10年前にツアー旅行でちらっとパリに寄った時に、フランス人に道をきいたら、「ったくよー、地図持ってんだろ、読めねーのかよ、ばーか」とフランス語で言い返され、授業の甲斐あってヒアリングだけはできたものの、話すことがおぼつかなかったわたしは、一方的にいじめられ、何も言い返せずに、しょんぼりと立ち去った。
 そいつひとりだけが冷たかったのだ、と思いたかったが、この時の旅では、パリ在住の日本人ガイドにてきとーにあしらわれ、土産物屋の店員にまで邪険にされたのだった。
 ちくしょー、フランス人なんか、パリ人なんか、大っきらいだー!
 まあいい。別にフランス人に会いに行くわけじゃないんだ。あたしはお城と美術館を見たいだけなんだ。
 そう気持ちをふるたたせると、パリ行き超特急列車、ユーロスターが出るウォータールー駅に向かった。
 ユーロスターの乗り場には両替所が二カ所ある。はいってすぐ左のところはガラガラにすいていて、つきあたり正面のは混んでいる。ここではあまったコインも両替えしてくれる。フランスに渡ってしまうと、ポンドの硬貨は受け取ってもらえない。
 さて、母はいつもどおり、せっかちだった。「ほら、並ぶよ」
「でも、まだ30分あるじゃん」
「スーツケースの置き場所がなくなったらどうすんの」
 なるほど。一理ある。
 ゲートが開くと、わたしたちはスーツケースをころがし、クマ3匹をぶらさげて、プラットホームを急いだ。
 いちばんのり〜。
 荷物置き場は小さかった。偉い、母!
 スーツケースを置き、雑誌や新聞を借りて、ひろびろとした座席に坐ると、わたしたちは、荷物置き場があんなに狭くて大丈夫なのかね、とぼそぼそしゃべった。
「あっ!」母が声をあげた。
「なに?」
「スーツケース、網棚にあげてる!」
 正確には<あみ>棚ではないのだが、座席上の棚にみなさんスーツケースをあげていた。実にパワフルである。
 一等に乗ったので、食事がサービスされることになっていた。
 前菜、メイン、デザート、コーヒー、チョコレート、と2時間近くかけて、ゆっくりと本格的なごはんを食べる。
「おいしーい」
「始めて食べたねえ、旅行に来てから、こんなまともなごはん」
 ロンドンの名誉のために言っておくが、原因はわたしたちの食い意地にあった。
 あちこち観光する。疲れる。ちょっとカフェで休もうか、ということになれば、当然、ケーキを食う。
 それを日に2回も繰り返すと、なんとなくいつもおなかがいっぱいで、結局、夕食はスーパーで買ってきたサンドイッチとサラダになってしまうのだ。
 これではいかん。パリではもう少し、まともな食生活をこころがけよう。

 パリ、北駅に着いた。
 今回の旅はフリーツアーだったので、駅からホテルまでの送迎サービスがある。
「うわあ、パリだあ」と、いかにもおのぼりさんらしく、ぼーっと立っていると、「さ、乗って乗って」とすぐにバスに押しこまれた。
 パリの現地係員は、こっちが感電しそうなくらいびりびりしていた。
 彼女は言った。「ふー、なにごともなく、いちばんの危険地帯を脱出できましたねえ」
 はあ?
「ここはいちばん危ないんでしょ。ジプシーの子供たちが、お客様のスーツケースなんかを持っていってしまいますからね」
「は、はあ」
「この前はバスの中に、子供たちがわらわらっと乗りこんできて、荷物を持ってかれてしまって。とっととバスを出さないと、勝手にはいってきますからねえ、連中」
 ひーえー。
 最近のジプシー少年少女は、ひとめでそれとわかる服装ではなく、アメリカ人のような格好をしているらしい。
「子供は絶対、近づけないでください。おそわれますから」
「は、はい」
 パリ、10年前よりさらに恐ろしいところに感じられる。
「それから、皆様のホテルは地下鉄のポルトマイヨー駅のすぐそばですが、今朝、うちのお客様がそこの駅でスリにあいましてね。危ないですから、気をつけてください」
 うそー。
 とりあえず、身体をくっつけてきたら、すぐに睨み返してください。さわってくる人間はまちがいなく泥棒です、と注意された。
 こ、こわすぎる。大丈夫なのか。生きて帰れるのか。不安でいっぱいの母娘であった。

 さて、さんざんおどされて、びびったわたしたちは、夕食はお部屋で食べようね、ということになった。地図を見ながら、お惣菜屋にはいる。
 案の定、英語はまったく通じなかった。
 ところが、10年前の記憶と違い、お惣菜屋のマダムは、かたことのフランス語をしゃべる東洋人に、しんぼう強くつきあってくれて、とても親切。
 おやあ? わたしの中のパリ人株、急上昇である。
 とりあえず、これとこれ、と指差して、豚肉の赤ワイン煮こみとポテトグラタンを買った。
 実は、これから先もお惣菜屋さんには、しょっちゅう世話になるのだが、肝心なフランス語の単語をわたしは知らなかった。(習ったのかもしれないが、まったく覚えていなかった)
<あたためる>という単語。これ、旅行会話集には、なぜかのっていないのだ。
 とりあえず、「これらは冷たい。わたしはそれらをホテルで食べることを欲する。だから、だから、だから、えーと、これらは熱くない」と言ったのだが「大丈夫、加熱してあるから、そのまま食べられるわよ」と、にっこり返されてしまった。
 うう、伝わらない。せめて電子レンジという単語を覚えておけばよかった。(これもずいぶん前にどこかで見たはずなのに忘れた)
 まあ、すべての店であたためてもらえるとはかぎらないが、「これをあたためてください」おいうフレーズは、パリでフリー旅行をする時に必要だな、と思った。
(帰国後、辞書をひきました。<あたためる>は<ショフェ>です。ブツを指差して<マダム(か、ムッシュ)、ショフェ・シルヴプレ?>と言えば、たぶん通じる。まちがっていたら、教えてください)
「まあ、いいや。このまま食べられるって言ってるし」
 ホテルに戻り、食事のしたくをした。
 100円ショップで買ってきたプラスチックのキティちゃん皿2枚に、割り箸でグラタンと肉を取り分ける。
 この部屋には湯わかしポットがないので、当然、ティーカップもない。そんなわけで、廊下にあった氷バケツがわりの巨大紙コップをふたつ盗んで、イギリスのホテルのディーバッグをほうりこみ、洗面台のお湯をいっぱいに熱くして、お茶をいれた。
「おいしいねえ」
「毎日かよってもいいよ、このお惣菜屋」
 いや、それはさびしすぎるだろ。
 とりあえず、パリで優しい人に会えたし、なんとかお買い物もできたし、おいしいものも食べられたし、よかったじゃん、と喜びつつ、ホテルそなえつけのシャンプーで食器を洗って、この日は早く寝たのだった。

翻訳家のひよこ