9月5日

 この日は遠足と決めていた。
 最近ブームらしいコッツウォルズ地方の村をまわるバスツアーに、わたしは日本からネットで申し込んでいた。いやー、ほんとにインターネットって便利ざます。
 びっくりしたのは、まだイギリスに出発してもいないのに、すでにカードから料金が引き落とされていたことだ。ううむ、先払いか。エヴァンズエヴァンズ社は。
 申し込み後に、確認メールをプリントアウトして集合場所に持ってくれば、チケットと交換できます、と連絡が来た。集合場所は、ヴィクトリア・コーチステーションの1〜5のプラットフォームとある。
 わたしはプリントアウトした紙を持ち、朝早くからすなおに集合場所のプラットフォームに行って、しばらく列に並んでいたのだが、どうも様子がおかしい。 まわりの人にきいて、はじめて「このコーチステーション内にあるエヴァンズエヴァンズのカウンターで、チケットとひきかえてもらわないとダメ」だと知る。
 うっそー。あと5分しかないじゃん。なんのための早起きだ。
「だからおかしいと思ったのに」
「思ったら言ってよ!」
 わあわあと走ってカウンターに紙を突き出し、チケットと交換してもらう。
 もー、あたしが悪いんじゃないからね。メールには「集合場所で交換」って書いてあったんだもん。コーチステーションにエヴァンズエヴァンズのカウンターがあるなんて、知らなかったもん。(同じミスをする人、かなりいるそうです)
 このツアーは、コッツウォルズ地方の美しい村を3つめぐり、最後はブレナム宮殿の庭のアフタヌーンティーでしめる、というスケジュールだった。
 ロンドンを出て村に向かう道の両脇は、英国ミステリお馴染みの「生け垣」で畑や牧場と仕切られている。
 そっかー。これが生け垣かー。
 フェラーズを訳している間に何度もお目にかかった単語だが、ようやく実物を見ることだできて感激。
 日本語の生け垣とはイメージがかなり違う。低めの木と茂みが道に沿って一直線に伸びた細長い小さな林、という感じ。
 この生け垣の中に、さまざまな小動物が暮らしており、よその土地に行く時にも、生け垣をつたっていく。ピーターラビットが住んでいるのもこの生け垣の中だ。
「しかし、生け垣もどんどん減ってきました。このあたりのはボロボロですね」と、ガイドのマークさんは言う。原因は農作業の機械化。生け垣は邪魔なのだ。
「それでも、最近はこれではいけない、という動きがあって、生け垣の補修をすると国から補助金が出るようになってきました」
 よそものながら、それはとてもありがたいことだと、わたしも思う。
 バスの停車時間がいちばん長いのはふたつめの村だけれども、どこで昼食をとってもよいと言われていたので、最初の村で食べることにした。アフタヌーンティーまでの時間はあけたほうがいいと判断したのだ。
 村の小さな教会を見たあと、小さなパン屋さん、というか、菓子パン屋さんにはいった。奥がティールームになっている。
 ショーケースには、さまざまな菓子パンやクリームケーキやタルトやパイがどっさり。ああ、全部食べたい。
 コーニッシュパスティを選んで、ティールームでお茶と頼んだ。母、パスティをいたく気に入り、もりもりと食べている。
 そんなにおいしいかな。普通じゃん。じゃがいもコロッケの中身をパイ生地で包んで焼いたものだ、といえば、味の想像はつくと思う。
 日本に帰ってからも、「あれはおいしかった」としきりに言うので、「なんで」ときくと、「ちゃんと作った料理ははじめて食べたから」という答えがかえってきた。
 そういえば、値段は高くても、イモあげただけ、魚あげただけ、エビ焼いただけ、肉焼いただけ、パンにハムはさんだだけ、という料理ばかりだったっけ。
 ゆでたじゃがいもをマッシュして、ひき肉をまぜて、味つけして、という料理はたしかにはじめてだった。たぶん、日本で食べたらそんなに感動はないと思うけど。
 母はひき肉が羊だったことに気づかなかった。そのくらい臭みがない。イギリスの羊は臭みがなくておいしいとは聞いていたが、たしかにほとんど気にならなかった。(羊が大嫌いなわたしはすぐに気づいたけれども、それでもおいしいと思った)
 ふたりでおなかいっぱい食べて、8ポンド48(にチップ)。観光地なのに村の物価は安い。
 さて、バスに戻ろうとして、わたしたちは途方にくれた。どっちに行けばいいんだ。
 なにしろ、村の家は全部同じに見えて、目印なんてないに等しい。
 奇跡的に母がおぼろげに覚えていた道をたどり、なんとかバスに戻った。
 次の村は、中央に小川が流れていた。川岸に坐ってパンを食べる人たちに混じり、わたしたちもさっそく芝生に坐って、ホテルからくすねてきた例のマフィンを食べた。
 マークさんに「田舎の散歩道があります」と指差されたほうに行くと、「パブリックフットパス」の標識があった。ああ、これが林望さんのエッセイに出てくる、田舎の散歩道かあ。
 標識にしたがって歩いていくと、羊さんたちの牧場の中を通り抜け、ぐるっと回ってもとの本通りに出てくる。
 商店街のすぐ裏に牧場が広がっているなんて、とても不思議。
 さて、トイレに行こうとして途方にくれた。さっき教えられたのに、どっちに行けばいいんだ。
 結局、マークさんにきいてトイレを見つけ、バスに戻った。
 次の村でも、わたしたちはまたバスに戻る道がわからなくなり、またまたマークさんを見つけて、「あのー、バスはどっちに」とたずねて、大笑いされた。
 最後のブレナム宮殿では、広い庭園のティールームでお茶を楽しんだあと、お庭を散歩した。
 ロンドンに戻る前に一応トイレを借りておこう、と、ちょっとだけ宮殿内にはいったのだが、城主のコレクションをこれでもかと飾っているのは、自慢たらしくてなんだかイヤミ。
 後日、若竹七海さんの「英国ミステリ道中ひざくりげ」を読み返して笑った。ブレナム宮殿は、中を案内するガイドも自慢たらしいのね。
 ロンドンに着くと、乗客たちは宿泊先に準じて途中下車していく。
 わたしが「途中でおりればちょっとは近いとわかってはいるんですけど、へんなことをすると絶対に迷子になりそうなので、終点まで乗っていきます」と言うと、マークさんは「よーくわかります!」とまたまた大笑いした。
 バスをおりる時には「ホテルまでの地図を描いておきました」とバカでもわかるような地図をくれて、「このとおりに行けば、お客様たちでも、絶対に帰れます」と保証してくれた。
 しくしくしく。あたしたちってレベル低い。
 帰る道すがら、スーパーで春巻きと揚げ餃子らしきものを選び、わたしのチキンサンドイッチも買った。母は持参のレトルト粥を食べるのだ。
 ソファの上であぐらをかき、日本語テレビを見ながら、醤油をぶっかけた春巻きとほうじ茶で疲れをとる。しかし。
「なんかさ、ふとももが地味に痛いんだけど」わたしはうったえた。「今日、たいして歩いてないよね」
「足が床についてなかったからだよ。日本人は脚が短いから」
 そうだ。そういえばバスに乗っている間中、ずっと足をぶらぶらさせてたっけ。
 うーむ。ヨーロッパの長距離バスにはこういう落とし穴があるのか。
 そんな会話のあと、母は疲れたと言って、お風呂にはいった。
 突然、悲鳴があがった。
「ちょっとっ! 天井から水が!」
 バスルームに飛び込むと、ぽたぽた、ではなく、まさにどしゃぶり状態で、お湯が降ってきている。うわー、やったな。
 あわててフロントに電話をすると、すぐに支配人が飛んできた。
 支配人はただちに上の部屋に行って、また戻ってきた。
「上の日本人のお客様が風呂の湯をあふれさせたので、当ホテルの設備に欠陥があるわけではございません」
 はいはい。やっぱり日本人のしわざね。大丈夫よ。わかってるわ。
 わたしが怒りもせずに、にこにことうなずいたので、支配人は不安になったのか、「あなたは英語がわかりますか」と何度も聞きつつ、同じ言い訳をくりかえす。
 失礼な。
 アイ・アンダスタンって言ってんじゃんよっ! わかってんだよ。
 その後、メイドさんが来て、バスルームをきれいにしてくれたが、結局、天井からの雨がすっかりやむまで一時間以上かかった。
 やれやれ、やっと風呂にはいれるぜ。
 そう思った時、ノックの音がした。
「ハウ?」
 遠足で疲れたうえに、眠くて気がたっていたわたしは、ドスのきいた声で答えた。
 外では「エクスキューズミー」という言葉のあと、沈黙が続いた。
 このホテルのドアにはのぞき穴もチェーンもないので、外を確認することができない。
 上の部屋の人があやまりに来たのかもしれないが、名乗ってくれないのではどうしようもない。こっちは女ふたりだし、母は寝巻きに着替えてしまっている。
 気の毒だが、無視することにした。すまんね。
 こうして、せっかくの遠足よりもずっとおもしろいイベントにしめくくられて、冒険続きの一日は終わった。

 海外の(西洋式の)お風呂の使い方について。

浴槽の中で身体を洗う」「シャワーカーテンの裾は浴槽の内側にいれる」「お湯を浴槽の外にあふれさせてはいけない」ということを知らない日本人は大勢います。
 日本にはそんな習慣がないのですから、知らなくて当たり前です。ちっとも恥ずかしいことではありませんし、バカにするほうがバカです。
 ツアー客には添乗員が、海外旅行が始めてのご両親には若い人たちが、「風呂をあふれさせて下の階に水を漏らすと、クリーニング代が7〜8万円かかる」とあらかじめ教えておくべきです。(へたをすると何十万円単位で請求されます)
 ロンドンのホテルの支配人には「日本人はバスタブいっぱいに湯をためてあふれさせる習慣があるのか」ときかれましたし、パリのホテルでその話をしたらスタッフに「このホテルでも日本人がたびたび湯をあふれさせるので困っている」と言われました。
 ツアー客だとしたら、注意をしなかった添乗員、現地係員の怠慢であり責任であると、わたしは思います。21世紀になろうと、日本人は日本人です。知らないのが普通です。
 一度、お湯をあふれさせると、床下というか天井裏まですっかりクリーニングしなければならないので、たいへんなお金がかかります。7〜8万円というのは、決して法外な金額ではないのです。
 浴槽の外にお湯をあふれさせてはいけない!
 と、ガイドブックの1ページめにでっかく書いておくべきですね。

翻訳家のひよこ