バッキンガム宮殿のチケットブースは開いていなかった。そりゃそうだ。朝の8時半くらいに着いちゃったんだから。
しかたがないので、宮殿の前にあるヴィクトリア女王記念像のまわりで、写真を撮って時間をつぶした。
バッキンガムは、入場者の人数制限をしているので、希望の時間帯のチケットを買う必要がある。が、朝早くから並んでも、その日の昼ごろのチケットしか入手できなかったりするらしい。
しかし「この日は午前中にバッキンガムの見学をして、午後はテムズ河クルーズ」と、予定をくんでいたので、日本からインターネットでチケット予約をしていった。
バッキンガム宮殿のサイトの、予約確認画面をプリントアウトして、チケットブースに持っていけば、並ぶ必要なしに、すぐに引き換えてもらえる。クレジットカードのナンバーを入れて申し込むので、この場で支払う必要もない。
迷子になっても大丈夫なように朝早くからホテルを出た。9時に開くチケットブースいちばんのりで、朝いちばんの9時半に宮殿入りできるチケットも入手した。
かんぺき〜。
と思ったのだが、やはりわたしはまぬけだった。
チケットブースのお兄さんが「入り口は左だよ」と教えてくれたので、正面の左にある門の前で待っていたのだが、わたしたちのほかは5人くらいしか立っていない。
その時点で気づくべきだったのだ。ここは入り口でないということに。
9時半になっても、ほかの観光客はあらわれず、案内もされないので、警備員さんにおそるおそるきいてみた。「あのー、宮殿の見学の入り口はここじゃないんですか」
「そこの角を曲がったところだよ」
うわーん。宮殿の左サイドってことだったのね。
「だからおかしいと思ったのに」
「思ったんなら言ってよ」
わあわあと走って、ゲートに飛びこむわたしたち。いったいなんのための早起きだ。
バッキンガム宮殿はちからいっぱいきらびやかだった。やはり、いま現在も使われているお城は華やかさが違う。
大食堂にはみごとな白百合がおしげもなくどっさり飾られて、講堂のように広い空間がかおりに満ちている。ああ、贅沢。
実は、ここに来るまで、わたしは風景画というものはつまんないと思っていた。日本の美術館で、ただのっぺりした壁に、ぽつん、ぽつん、と、森だの田園だのの茶色っぽい風景画が展示されていても、退屈でなにがいいのかわからなかった。
けれども、両側の壁一面に大小さまざまな風景画がびっしり飾られた大廊下は、宮殿の奥にあるにもかかわらず、たくさんの窓があるように思えて、ああ、こういう絵はこういう場所に飾られると生きるんだな、と気がついたのだ。
そして、出口はバッキンガムの新宿御苑のような大庭園を突っ切った裏にあった。もとの正面に戻るには相当歩かなければならない。
早く引き返して場所とりをしなければ。衛兵交替式を見るために。
15分ほど歩いて、ようやくヴィクトリア女王のいらっしゃる中州に戻ってきた時には、すでに観光客がひしめいていた。
まだ坐れる場所が少し残っていたので、階段に腰をおろし、水と食料を取り出して、軽く腹ごしらえをする。
この食料というのが、実は初日に「ここのホテルのエサは全部ダメだ」と嘆いた、その朝食のテーブルから持ってきたマフィンである。
初日はどうもよりによってまずいものばかり選んでしまったらしく、2日目からは、バターをたっぷり塗ったトーストと、ベーコンと、ポテトと、ベークトビーンズを、おいしいおいしいとたいらげていた。
おまけに、ここのマフィンが絶品であることを発見したので、朝食のたびにひとつずつくすねるようになったのだ。
「パレードの写真はあまり撮らなくていいよ」
母に注意された。むかし妹がたくさん撮ったらしい。
「わかった」
たしかにそう頷いたのだが、いざ交替式が始まり、パレードが終了してみると、たっぷり写してしまっていた。
不思議だ。「はー、らくちん」
午前中、ずっと歩き回って、交替式の間はずっと立っていたので、テムズ河クルーズは天国のようだった。
水を飲みながらビスコやせんべいをかじって、ぼんやり坐っている間に、「あ、ビッグベン」「セントポール寺院」「ロンドン塔だ」と、名所をつぎつぎ見物できる。
おまけに、クルーズの出るピアがウェストミンスター寺院前にあったので、ホテルまで15分ほど歩けば帰れるのも好都合だ。
こうして一時間以上も足を休めたわたしたちは、途中、ウェストミンスター寺院に寄って戻ることにした。
寺院はまさしく王家の墓だった。恐い。
エリザベス一世は大人気らしく、「立ち止まらないでください」と書かれている。メアリ一世も、スコットランド女王メアリも、ここに墓があるというのが、また恐い。
寺院を出たわたしたちは、またまたニュースコットランドヤードの前でお巡りさんに道をきいて、ホテルに帰った。「ハロッズに行こう」
昼寝をして元気になった母が言った。
「はー? 今日? いまから?」
「まだ開いてるんでしょう」
母は妹のお土産を買わなければ、と思いつめていた。
妹は「なんにもいらないからね。チーキー以外は」と、さらっと高いものを注文しやがったのである。
むろん母はチーキーなんてものを知らなかった。
「それなに? どこで売ってるの」
「クマのぬいぐるみだよ」わたしはなげやりに答えた。「デパートじゃないの」
「イギリスのデパートってどこ」
「ハロッズかな」
この会話を母はしつこく覚えていたのである。
「クマなんていつでもいいじゃん」
「だめだめ、あの子は楽しみに待ってるんだから」
というわけで、わたしたちはもう一度、街に出ることになった。まあ、うちのホテルもハロッズも、地下鉄の駅からすぐなので、たいした手間ではない。
ハロッズの4階(日本で言う5階)にクマ売り場はあった。
「す、すごい!」
見渡す限り、クマ、クマ、クマ・・テディベア天国である。
もちろん半分くらいはハロッズオリジナルのクマくんだが、あとの半分はシュタイフとメリーソートのぬいぐるみたちだ。
いやーん、こんなにあるなんて。どうしよう。選べない。
悩みに悩み、ようやくかわいらしいのを選んで買った。2匹。
うーん。日本までクマ2匹ぶらさげて歩くのか。
地下1階の日本語カウンターで免税手続きをしているわたしに、母がささやいた。
「もうこれ以上、手荷物は増やさないようにしないと」
「大丈夫だよ、大きい買物はこのクマだけなんだから」
しかし。
この時の言葉は、のちに何度も、何度も、何度も、裏切られることになるのである。