観光初日。
普通はテムズ河クルーズや、ダブルデッカーのバスで市街を見てまわるところだろうが、わたしは難易度の高いイベントをスケジュールあたまにくみこんでいた。
ロンドンからたった30分、電車に乗るだけで、ハンプトンコート宮殿という巨大なお城に行くことができる。ここが最初の目的地だ。
宮殿というのは、歴史ミステリ好きなわたしも、きれいな名所が大好きな奥様も、ともに喜べるスポットだが、数ある城のなかから、特にハンプトンコートを選んだのには理由がある。
この城は、かの有名なエリザベス女王の父、ヘンリー8世がたいそう気に入っていたもので、中世の匂いが色濃く残っている。なんと16世紀の厨房を再現した大キッチンまである。
旅行計画をたてる時に、「あまり似たような場所ばかりまわると、どれがどれだかわからなくなる」「でもお城はたくさん見たい」と、母に注文をつけられたので、なるべくバラエティーに富んだセレクトをこころがけた。
今回の旅では、バッキンガムも見学する予定だったので、ウィンザー城は捨てることにした。
まあ、ハンプトンコートとウィンザーをセットにした、日本語バスツアーもあるにはあって、ラクそうだったけれども、ハンプトンコートは庭園でお茶するだけで、宮殿内の見学はないというので、諦めたのである。
うーむ。自力移動か。いきなり。
まず、地下鉄に乗ってウォータールー駅に行く。
ここでハンプトンコートまでの往復切符を買い、しかるべき電車とホームを見つけて乗る。
できるだろうか。トロいわたしに。
けれども案ずるより産むがやすし。すべてはとんとんと進んだ。
東京の地下鉄になれている人なら、ロンドンのチューブは簡単に乗りこなせる。車内の雰囲気も、東京の電車とたいしてかわらないので、手荷物に気をつけて、ぼやっとしていなければ、危険なことはない。なんたって居眠りしているおじさんもいる。
まあ、我々はあきらかに観光客の日本人というだけで目立っているので、居眠りなんて絶対にできませんが。
ウォータールー駅は東京駅に感じが似ていた。軽食スタンド、キオスクが多数並び、ボディショップの出店まであった。(駅のトイレは20ペンス。きれいです)
切符を買う窓口では、お金をターンテーブルにのせて、くるっと回して取ってもらう、というシステムに気づかず、お札を握った手をガラスにがんがんブチ当てるという醜態を演じただけで、すんなり購入。
あとは、天井からぶらさがるテレビ画面に、電車が何番線に来るのか表示されるから、時間までにとことこと行けばいい。ただし、画面の字がこまかいので、少々見づらい。
あらかじめ時刻表を調べていくと、気持ちに余裕ができる。ちなみにロンドンからハンプトンコート直通の列車は、いま現在、1時間に2本出ている。(復路も)
それにしても、この車窓はなぜこんなにキズだらけなのだろうか。釘のようなものでひっかいた落書きだらけで、景色がまともに見えない。
それでも、隙間から見える風情ある建物や景色に、母は大喜びだった。
残る問題は、到着してから、この方向音痴コンビが無事に城にたどりつけるか、という一点にあったが、駅に着いてみると、日本語の案内板があるうえに、城もすぐ眼の前で、難なくクリア。
簡単じゃーん!
城の中は日本語のオーディオガイドを借りて、ヘッドホンで聞きながらまわることができるが、このオーディオガイドがけっこうクセモノである。
こののち、ロンドン、パリのあちこちの城や美術館で、同じ機械を借りたのだが、2台借りると、必ず片方がこわれていて、順路をかなり進んでから、「んもー!」と頭から湯気をたててスタート地点に引き返すはめになった。
「接触が悪いのかな」と我慢して使っていると、途中で必ず機械が死んでしまい、かなりの距離を往復しなければならない。
最初に少しでもおかしいと思ったら、借りたその場で交換してしまうのがいい。「アウトオブオーダー」と言えば、すぐに替えてもらえる。
さて、ひろーい、ひろーいお城の中は、なぜかガラガラだった。どうして? こんなにりっぱなのに。ベルサイユ並みに観光客が押しかけていてもおかしくないのに。
ほぼ部屋ごとにスタッフがいて、相当ヒマなのか、人恋しいのか、「この部屋はなんですか」ときくと、嬉々として懇切丁寧に解説してくれる。実にありがたい。
ゆっくり3時間以上もかけて見物し、「いやー、すばらしかったねえ」とロンドンに帰る電車の中。これが非常に辛かった。
この日はかなりのぽかぽか陽気で、母もわたしもアンサンブルの上をぬぎ、肩を丸出しにしていたのだが、車内にはなぜか暖房がはいっていたのだ。
「ううーむ」
「ううーむ」
苦しむ母娘。ところが、車内のイギリス人たちは涼しげな顔で、がっちり長袖を着込んでいる。
どうして? なぜ誰も汗ひとつかいていないの?
「ううう」
たーすーけーてー。ようやくロンドンに着いたわたしたちは、よろける足を踏みしめ、とりあえずベイカー街に向かった。むろん、わたしの発案である。
やっぱりねー、メッカには行かないとねー。
ひとつトラブルがあった。この日、ベイカーストリート駅はウォータールーからの側のプラットホームが工事中で、いったん次の駅まで乗り越し、駅ひとつ引き返さなければ、おりられなかったのだ。
実を言うと、わたしはまだ自動券売機を使う度胸がなく、地下鉄の切符すらいちいち窓口で買っていたのだが、それが幸いした。
ウォータールー駅の親切な駅員さんが、切符を売るブースからわざわざ出て着て、「いまこっちからの電車はべイカーストリートには停まらないからね」と、路線図までくれて、丁寧に教えてくれたのである。
地下鉄車内でもアナウンスされたが、よく聞き取れなかったので、教わっておいて本当によかった。こんな小さなことでも、わからなければ、ロンドン初めての身にはパニックの原因になっただろう。
べイカーストリート駅構内にびっしり貼られた、ホームズ様の横顔入りタイルを、一枚くらいはがして持って帰っちゃダメ? とよだれをたらして眺めつつ、地上に出て、シャーロックホームズ博物館をめざした。
有名なビクトリアンおまわりさんはいなかった。ちぇ。
入場料は6ポンド。1200円です。ふたりで2400円。
再現されたホームズ様のお部屋は、まあそれなりに、ほほうと思ったが、名所のわりに客がほかにふたりしかいないのは、いかなる理由か。階下の無料ではいれるギフトショップは大盛況だった。
所在なさげに立っているビクトリアンなメイドさんに、「あれはなんですか」と部屋の中のものについてたずねても、「わかりません」としかかえってこない。ちょっと、どういうことよ。
奥様を「いいところだからね」と騙してむりやりつれてきたコンパニオンとしては、面目まるつぶれである。
ごめんね。お母さん。こんなところに、こんなにお金を使っちゃったわ。
振り返ると、母は喜んでいた。
「テレビのドラマとそっくりだねえ。ここに本物のホームズが住んでいたの」
「違うよ。ホームズは鬼平とか水戸黄門みたいな実在の人物じゃなくて、完全なフィクションなんだよ」
「じゃ、この部屋はなに」
「再現しただけ」
「いない人の部屋を」
「うん」
「どうして」
母には納得できないようであった。ま、そうだろうな、普通は。
ホームズ博物館を出て、わたしはそれでもくやしがっていた。やはり、<シャーロックホームズ>パブのほうにすべきであった。1200円も払えば、けっこうな食事ができただろうに。
ぶちぶち言いながら何気なく見上げて、腰をぬかしそうになった。あの有名な、元祖べイカーストリート221Bの銘板が、こ、こ、こ、こんなところに!
「お母さん! 写真、撮って、撮って、撮ってー!」
記念撮影の間、地元のビジネスマン&OLたちは、辛抱強く立ち止まって待ってくれた。
ありがとう皆さん。御親切は忘れません。その晩。ホテルに戻って、さっそく日本に電話をかけた。
妹がでた。「・・はい」
「今日はねー、ハンプトンコートに行ってねー、ホームズんとこ行ってねー、晩ごはんはローストビーフでねー、おいしかったよーう、ケーキもおいしー」
「・・あのね。いま、こっち、夜中の3時なんだけど」
「あれ。昼間じゃないの」
「7時間引くんじゃないよ。足すんだよ」
さんざんバカにされて、この日は終わった。