母とふたりのロンドン、パリ旅行。
計画をたてる前に、まず母にきいた。
「どこに行きたい?」
「有名なとこ」
「あとは」
「きれいなとこ」
「・・あとは」
「いいとこ」
この時点で、わたしは古書店めぐりを諦めた。ロンドンダンジョン(昔の拷問や切り裂きジャックに関する、心臓に弱い人おことわりの見せ物小屋)も無理であろう。
さらに足腰の問題もある。母は博物館でシニア割引きを受けられるトシだし、娘のわたしもそこそこ若いとはいえ、普段は動かざること死火山のごとし、現役ひきこもりと言っていい生活を送っている。
これでは自力のミステリスポットめぐりも、切り裂きジャックのウォーキングツアーも無理に決まっている。
しかし、ものは考えようだ。
友達を気軽に誘いづらい、ちょっとお金はかかるが、奥様が喜びそうな豪華なミステリスポットを回ればいいではないか。そしてまた、奥様につきそって欧州をまわる、というのは、クリスティでおなじみのコンパニオンを体験することにほかならないではないか。
わかりました。わたくしは奥様のコンパニオンになりきりましょう。
ところで、体験してわかったのだが、コンパニオンの訳語は「奥様の話し相手」よりも「おばさんのおもり」のほうが正確なような気がする。ロンドンのホテルに着いたのは夕方の5時すぎだった。これが実に中途半端な時間で、寝るわけにもいかないし、かと言って、観光やショッピングをするわけにもいかない。
「とりあえず、そのへんをぐるっとまわってさ、地理をつかもうか」
「そうだね」
ホテルを出ると、眼の前でニュースコットランドヤードの看板がくるくる回っていた。ここは警視庁のすぐ近くなのだ。
はじめに言っておくが、わたしも母も極度の方向音痴である。
警視庁のばかでかい建物のまわりにうようよする警察官をつかまえては、「あのー、このホテルに帰りたいんですけどー」と、たった5泊の間に3度もきいているのだ。しかも地図を握りしめたまま。
足腰がどうというより、この方向音痴のほうが、ミステリスポット探索散歩には大問題であることに、現地入りしてようやく気づいた。よかった。ミステリ散歩の旅でなくて。
わたしたちは地図を頼りにそろそろと歩き出した。それにしても、ちょっと歩くとスターバックス、ちょっと進むとブーツ(ドラッグストア)、ボディショップ(自然派化粧品)がある。出現頻度や店の感じは、ドトールやマツモトキヨシそっくりだ。
マックやピザハットもたくさんあるし、なんだか東京を歩いているみたいだなあ。
そう思ったとたん、リラックスできた。海外旅行そのものがほぼ10年ぶりなうえに、初めて来た国なので、やはり相当緊張していたらしい。
けれどもここはロンドン。てくてく歩く眼の前に、やがてウエストミンスター寺院が。そしてビッグベンが。薄暮のなかに美しい色をまとってそびえている。
「きれいな街だねえ」感動する母娘。
そうか。うちのホテルからテムズ河畔までは、簡単に歩いて来られるのね。ということは、バッキンガム宮殿も大丈夫だな。よしよし。
地図上の距離感を身体で覚えつつ、わたしたちは引き返した。
「晩ごはんを食べないと」と、言い出す母。
けれども、わたしは全然、おなかがすいていなかった。
というより、胃が「いまは(日本時間の)午前零時だ!」と叫んでいた。
不規則な生活をしていて普段から夜中の2時、3時にラーメンを食べるのはザラだ、という人ならともかく、サラリーマン家庭で時計のように規則正しい生活をおくり、なおかつ、ダイエット上の理由で、夜9時以降はものを食べない、という人間にとって、そんな時間に胃にいれるものは、年越しソバくらいなものだ。
しかし、少しは食べておかないと、夜明け前に空腹で苦しむことになるのも必定である。
「サンドイッチくらいなら食べられるかも」
わたしと母は近所のコンビニにはいってみた。サンドイッチの食パンは全部、黒いパンだった。
「ええー、白いパンのはないのー」
さらに具がチキン(母が嫌い)かツナ(わたしが嫌い)ばかり。
しかたがない。ホテルのカフェで食べよう。
これだけは避けたかった----カフェのソファに腰をおろしながら、わたしは天井をあおいだ。
いままでの経験では「海外のホテルめしは高くてまずい」ことが多いのだ。
まもなく運ばれてきたサンドイッチを見て、母娘は仰天した。
わたしの前に置かれた大皿には、巨大サンドイッチ4つと、フライドポテトがこんもり盛り上げられていた。
母の前にはバゲットまるまる1本分のハムチーズサンドがでーんと横たわり、いわゆる日本語で言うポテトチップスがどっさりのせられている。
しまったー。ふたりでひと皿にしておけばよかったー。
泣きながらようやく半分だけ口におしこんだサンドイッチは、どちらもパンがぱさぱさに乾ききっていた。しかも具が全然おいしくない。
こんな、こんな食事が、これから毎日続くのか。
イギリスの食事がまずいって、やっぱり本当だったのか。
このサンドイッチと紅茶の夕食は、ふたり分で5000円もした。
翌日の朝食はバイキング形式で、わたしはフィッシュケーキ(ほぐした魚の身とつぶしたじゃがいもで作った、コロッケの中身だけを焼いたもの)と、バンガース(中身は肉よりもパン粉がほとんどと思われる、つなぎ入りのソーセージ)と、マッシュルーム(イギリスのは汁気たっぷりでおいしいと評判の)を皿に取った。
フィッシュケーキはなまぐさかった。
バンガースはひと口しかのどを通らなかった。
マッシュルームは生煮えで臭かった。
ちょっと眼がうつろになったけれども、いやいや、ものは考えようだ、と気力をふるいたたせる。
最近、油断しておなかが出てきたことでもある。ダイエットのいい機会じゃないの。こんな時でもないと、断食なんてできないじゃないの。
そう自分に言い聞かせつつも、早くも里心がついてしまったわたしなのだった。