ほうれんそう

 10年ほど前になるが、家族でイタリアに行った。というと、なにやらお金持ちっぽく聞こえるが、家族めいめいが自分の旅費を自分で出しただけだ。
 とはいえ、節約できるところは節約したいし、あまり動き回らずにのんびり観光したい。それで、パック旅行ではなく、自分たちでホテルを選び、旅行会社には日本・イタリア間の飛行機とホテルだけを予約してもらい、現地の移動は自力で手配することにした。
 家族の期待が背中にのしかかるが、わたしに喋れるのは日本語と、英語少々と、NHKのテレビ講座で一年間かじったイタリア語ひとつまみだけである。大丈夫か?
 成田でアリタリア航空の飛行機にのると、さっそくスチュワード、スチュワーデスが、新聞や雑誌をかかげて通路を歩き回る。ところが彼ら、「スミマセーン」「スミマセーン」と連呼しながら新聞をくばるのだ。誰だろう。そんなへんな言葉を教えたのは。
 しばし考えて、はたと気づいた。イタリア語には「Prego」という便利な言葉がある。たとえばカフェでは、ウエイターを「プレーゴ(すみません)」と呼び止めてコーヒーを頼み、ウエイターはコーヒーを「プレーゴ(どうぞ)」と差し出す。
 きっと、かたっぽの意味しか教わらなかったんだな。(いまもそうなのでしょうか)
 さて、長い長い空の旅の末、ローマについたのは夜だった。アリタリアの無料送迎バスに乗せてもらうことになっていたので、窓口に行ってチケットを見せる。
 ふんふんとチケットを見てうなずいた窓口のお兄ちゃんが、いきなり怒鳴った。「ほうれんそう!」
 はあ?
 わたしと妹は顔を見合わせた。「ね、ほうれんそうって言ったよね?」「言ったよね?」
 やがて、のっそりとガタイのいいおじさん運転手が現われて、ミニバスに案内してくれた。それにしても、イタリアには車間距離という概念がないのでしょうか。前の車と10cmくらいしか距離をおかずに、ぶっとばすのはやめてほしい。急ブレーキはしょっちゅうだし。
 無事、ホテルについたころには、あまりの恐怖で家族全員、息もたえだえだった。
 荷物を置き、ホテル近くのカフェで、もう夕食だか夜食だかわからないサンドイッチをもそもそ食べているうちに、あっと気がついた。
 あの「ほうれんそう」。
 あれは運転手さんの名前だったんじゃないでしょうかね。

 ロレンツォ、という。