angel

 困るのは固有名詞の発音や、実際に現地で見てみないとわからないような事柄だ。今回、ソーヤーの翻訳ではアメリカ在住のK氏にお世話になった。
 彼がいなければ某主要登場人物の名前はとんでもない発音で表記されるところだった。これが正されただけでも、感謝感激雨あられだ。
 roach motelとはどんなものかと質問した時など、K氏はわざわざスーパーにでかけて、店員さんに聞いてくださった。ああ、なんていい人なのかしら。
 文脈からいって、これが「設置型のゴキブリ捕り」であることは確かだった。が、商品名なのか、一般的な呼び方なのか、日本のゴキブリホイホイを想像していいものなのか、どうしてもわからない。
 K氏の住む地域にはほとんどゴキブリがいないためか、roach motelにゴキブリ捕りという意味がある、という人と、そんな意味はない、という人とに、ネイティブでさえ意見がわかれてしまった。(ただし、この言葉には「ゴキブリが出るような安ホテル」という意味がある)
 しかし、スーパーの店員さんによれば、そういう商品名の「設置型のゴキブリ捕り」があるとのこと。ゴキブリホイホイのような組み立て式ではないようだが、とりあえず実在はするのだ。ああ、やっぱり聞いてよかった。
 ついでながら、蚊取り線香はmosquito coilというそのまんまの名前で売られているとか――いずれこの知識が役にたつこともあるであろう。(いつだ)
 ところで、このK氏からのメールには、おもしろいおまけがついていた。以下、抜粋して紹介します。(Kさん、感謝!



 知人の就職が決まって、お祝いにお寿司やさんでランチを食べたのですが、その店のオリジナルとして、「ニューヨーク巻き」(リンゴを使ってる)、「アラスカ巻き」(鮭を使っている)、「ラスベガス巻き」(なんでもちょっとずつ入っている上、マティーニが付く)、といったメニューがありました。その一つに、"Tootsie Roll" というのがあって、これはカニとシイタケの巻物だそうです。
 なぜそんな名前をつけたのか訊いてみたところ、「見かけが Tootsie に似てるから」という答えでした。"Tootsie Roll" はチョコレートを使ったキャンディの一種で、どこのスーパーにも置いてある定番商品なのでした。
 


根性

 わたしよりふたつ年下の慶徳さんは、一見、ほんわかした感じのお兄ちゃんだが、ときどきさらりとすごいことを言う。
 彼はジューン・トムスンのホームズ関係の本も担当しているのだが、ある時、ゲラを読むうちに、どうもトムスンが日付けや曜日を間違えているような気がしてきたそうだ。
 そこで慶徳さんはホームズの時代のカレンダーをパソコンで作成し、原作者が間違えているすべてのデータを訂正してのけた。
 おお、さすが理系。わたしもトムスン訳者の押田由起さんもしきりに感心した。
 なんだ、そのくらい、と思ってるあなた。そりゃ、このくらい、理系の人にとっちゃなんでもないことかもしれません。
 しかしもっとすごい話がある。
 やはり彼が担当していた某アンソロジーの一篇で、引用されていたロシアの詩が、どうも文脈からいって意味がおかしいと思ったそうな。日本語の訳は英語の原文と照らしあわせるかぎり間違っていない。ということは、ロシア語の詩が英語に訳された段階で間違っているのだ。
 そう結論を出した彼は、なんとロシア語のもとの詩を探し出し、さらに初体験のロシア語の辞書と文法書を片手にそれを解読し、英訳の誤りを訂正してしまった。
「えっ!」
 そんな話をさらりと言う慶徳さんに、わたしはたまげてしまった。いや、わたしだけではない。東京外語大ロシア科卒の某翻訳家すらたまげていた。そりゃ驚くだろー。
「ロシア語ってアルファベットからして違うじゃん!」
「そうなんですよね」
「品詞の見分けもつかないし、単語の基本形がわからないくらい変化しまくりだから、辞書ひけないじゃん!」
「そうなんですよね」
 でも、文を訳したわけじゃなくて、間違っていると目星をつけた名詞の意味を確認しただけですから、と、彼は実におくゆかしく謙遜するのだった。
 わたしより年下なのに、ずっと根性があって、ずっと人間ができている。
 ‥‥なんかむかつく。

バイク便

 リーディングの仕事で読まされるのはどうしようもない本がほとんどだが、ごくたまに、すばらしくおもしろい本を日本で(エージェントをのぞいて)いちばん早く、無料で読めることがある。ミネット・ウォルターズ、R・D・ウィングフィールドのタイプ原稿を読めちゃったりもする。ウィングフィールドのタイプ原稿のコピーには一枚ダブりがあったので、こっそり盗んでしまった。
 ほかのジャンルの本だったら絶対に無理だと思うが、ミステリだけは好きなのでちょっとした原書なら、全精力を傾ければ一日で読める。
 それで「急ぎで読んでください」とわたされた本のレジュメを三日で持っていったりしたせいだろうか、ある日、あのいつも笑顔でむごいことを言う松浦さんから電話がかかってきた。
 だいたい彼の方から電話をくれる時は、ろくな用じゃないのです。
「ゴダードのタイプ原稿で、600枚くらいあるんですが、急ぎなんですよ。今、その原稿がエージェントからバイク便で来る予定なので、届いたらすぐにぼくが持っていきますから、途中まで取りに来てください」
 まあ、取りにいくのはいいけど。「急ぎって、それで締め切りは?」
「明後日(みょうごにち、と彼は発音する)の午後に持ってきていただければ」
 おい。600枚を48時間以内に読んで、あらすじまとめろってのかい。
 わたしの怒りの波動を感じたのだろうか。松浦さんは泣き落しにはいった。「頼みます。中村さんしか(ヒマなひとは)いないんです」
 そう言われて、心のやさしいわたしに断れるはずがあるだろうか。しぶしぶ引き受けて、東京創元社にバイク便がついたらまたかける、と言われた電話をおとなしく待った。
 しかし、待てども待てども電話はこない。どうした、バイク便。
 神保町から飯田橋なんて、歩いても30分で行けるぞ。
 結局、バイク便が到着したのは3時間後。48時間しかないのにー。さらに原稿が我が家に到着するのに、1時間以上かかるのにー。えーと、食事と睡眠と原稿を届ける時間をさしひくと、ああ、もう、絶対にまにあわないよう。松浦さんのばかばか。
 それでも負けず嫌いのわたしは根性で仕事をしあげた。地獄のようだった。翌日は頭痛で一日寝こんだ。
 というような裏方の苦労があって、翻訳書は生まれるわけです。

山の上ホテル

「さまよえる未亡人たち」を訳していて、いちばん困ったのがスコットランドの地名の発音だった。ガイドブックを見れば、地名はほとんど原語表記で、たまに見つけた日本語表記は本によってばらんばらん。もー、どれを信じていいやらわからない、という状態だ。
 ぬう。これはやはり裏わざを使うしかないな。
 というわけで、スコットランドファンのホームページオーナー数名に協力をお願いし、半年がかりでなんとか、すべての疑問を解決し(ていただい)た。
 ええ、わたしの翻訳は他力本願でなんとかなってますの。(ひらきなおりっ)
 ところで、最後までわからなかった発音が、いちばん登場頻度の高い単語で、舞台となった宿の名前、「speinne mor hotel」。とりあえず、「スペイン・モル・ホテル」とやって、翻訳をすすめ、正しい発音がわかった時点で訂正することにした。
 しかし、わたしはこのホテルの名前をカタカナにしたくなかった。
 それでホテル名そのものを日本語にするために、発音ばかりでなく、どうしても単語の意味を知りたかったのだが、スコットランド関係のメーリングリストでたずねてもらっても、ウェブ辞書で検索しても、ついに回答は得られなかった。
 わたしは慶徳さんにぐちった。
「カタカナじゃなくて、<なんとかホテル>にして、ルビで正しい発音をいれたいんだけどさー。たとえば<山の上ホテル>とか」
「はあ」
 その後、発音が「スペーニェ・モー」であるとの情報ははいったが、単語の意味はあいかわらず不明だった。
 うーん、<スペーニェ・モー・ホテル>かー。カタカナでごまかしてるみたいでやだなー。
 しかし、この難問は慶徳さんの手によってあっさり解決した。
  彼はこの単語をウェブ辞書ではなく、検索サイトに直接打ちこんだのだ。そしたら一発で「speinne mor」という山の名前が出てきたそうな。
 くそー、辞書にこだわったあたしがバカだった。まさか固有名詞だとは‥‥
「ほほほ、でも<山の上ホテル>ってのは、いい線いってたじゃないの」
 おとなげなく胸をはるわたしの前で、誰にも解決できなかった難問をさらりと解決した慶徳さんは、あくまで謙虚に慎み深くうなずいていた。むうううううう。
 ‥‥なんかむかつく。

おまけ。
メールのやりとりで得た情報です。わたし以外にもスコットランド関係の翻訳で質問した人がいたそうで、わたしが質問したおぼえのない単語もいっぱいはいっていますが、ま、雑学とゆーことで。

●人名:発音
Niall ニール
Niel たぶんニール
Eara たぶんエアラ
Morvan たぶんモーヴァン
Eilig Wishart たぶんエリク ウィシャート
Clennan たぶんクレナン
Odar たぶんオダールただしOdharはオーアルで要塞のこと
Goraidh たぶんゴーライ Goraiche(ゴーリヒェ:folly)由来ではないか?
Muir ミュアー? ミューア人名に多いがムーアのこと
Crannog クラノッグ? クラノクあるいはクラウノクか?
Tearlach An t-Earrach(アン・チャラッハ:春)由来ではないか?
Wynda たぶんウィンダ
Coira たぶんコーラ
Eilidh エイリー
●地名:発音
Creag Dhu 発音  *黒い岩Black Rock クレーク グーただし多くの人はドゥーと読むと思う
Mishnish Lochs たぶんミシュニシュ・ロフスただし多くの人はロクスと読むと思う
Dervaig
Loch Frisa ロフ・フリーサ frith(鹿の湖)由来ではないか?
Fionnphort フィオナ・フォート
●通常の単語:発音
diolain 発音  *戦いのときの雄叫び ジョーリン(不法な)
fear-gleidhidh 発音  *守護者Guardian フェル・クレーイー
cumhachd 発音  *力power クーワハク
cunbhalachd   発音  *判断judgment クンワラハク
cunbhalach 発音  *安定steady クンワラハ
Cinnteach 発音と意味 キンチョホ(sure)
fiadh 発音 *しかdeer フィーア

●一般的な質問
> > Speinne Mor Hotel(架空のホテルの名前です)
スペーニェ・モー(Morはbigの意味ですが、speinneは聞いたことがないそうです)

> > Gribun rocks(Loch na Kealのあたりにあるらしいのですが、岩壁でしょうか
http://seumas.mull.com/gribun.htmlに写真があります。発音はグリバン。