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知恵袋

『荊の城』のゲラを読んだ慶徳さんの感想。
「さすがは下品なのが得意な中村さん。下町娘のせりふがいきいきしてますね」
 なんだよ。どういうことだよ。たしかに、ほとんど地でやれたのは事実だけどさ。
 自慢じゃないが、以前、訳した本では、レズのせりふが真に迫っている、とほめられたんだぞ。レズも得意なんだぞ。
 しかし、あまりに真に迫っていたのか、その後、あらぬ噂をたてられて迷惑した。いや〜、ちょっとレズっぽい気持ちがわかる程度なのよ。
「わかるんですかー!」めずらしく大声をあげる慶徳さん。
「誰だってあるじゃん。中学とか高校で、かっこいい先輩や、きれいなお姉さまに憧れるとかさ。そのくらいなら気持ちはわかる」
「ああ」納得する慶徳さん。ふふん。彼にも経験があると見た。
 しかし、今回のゲラなおしで、彼はその経験を生かしてくれなかった。何かわたしに勘ぐられると思ったのだろか。
 実は、ゲラの中で、わたしがどうしてもうまく訳せなかったせりふがあった。
 少年たちがある男をからかって「あいつ、ゲイなんだぜ」という意味で「バックからはいりたがるんだぜ」と言うのだが、この<バック>が<家の裏口>と<おしり>のかけことばになっていた。
 ううーむ。
 ビクトリア時代の小説に<バック>はないだろうな〜。あまり直接的でもな〜。
 悩んだわたしは結局、「うしろからはいりたがるんだぜ」とやったのだが、なにかこう、いまいち足りないというか、びしっと決まらないというか、とにかく気になっていた。
 ゲラを読んだ慶徳さんも、もう少しうまい訳はないだろうか、と思ったらしい。
 彼は東京創元社の知恵袋、桂島氏にその部分を見せた。
 さすがは知恵袋。即答したそうな。
「<うしろからが好きなんだぜ>」
 ビンゴ!
「それでいきましょう、それで!」
 喜ぶわたしの声を、受話器の向こうの慶徳さんがどんな表情で聞いていたかは知らない。
「こんなところばかり、みがきをかけているような気がします」
「バカミスって言われるね」
 それはともかく。
 ありがとう、桂島氏。
 これからもよろしくね、桂島氏!

入院

 2004年8月某日。わたしは東京創元社の伊藤嬢と電話で話していた。
「あ、来月、やっと手術受けることになったんで〜」
「いつ?」
「だめだめ。何日って言ったら、伊藤さん、お見舞いに来ちゃうじゃん」
 このわたしのセリフにはちゃんとした根拠があった。
 元看護師の伊藤さんはとても優しいかたで、わたしがちょっと体調を崩したようなことを口走ると、たいそう心配してくれる。
 編集部の某さんたちによれば、彼女のデスクの引き出しには、ちょっとした救急道具がぎっしりはいっているらしい。いつでも救命ができるようにと、人工呼吸グッズまであるそうな。
 そんな彼女の前で、6月のある日、わたしはうっかりもらしてしまったのだ。もうじき母が大手術を受けるということを。
 はっきり、何日の何時にどこで、と言ったつもりはないし、母の名も当然教えていないが、さすがはミステリ専門の編集者。わたしの言葉の断片をつなぎあわせて、場所をつきとめ、当日、わざわざ病棟まで来てくれたのである。
 6時間ほどで終わる、と言われていた母の手術が10時間以上も続いて不安のあまり倒れそうだったわたし。伊藤さんの顔を見た瞬間、がっくり腰がぬけた。
 ありがとう、伊藤さん。このご恩は一家一同、一生忘れません。
 というわけで、彼女には絶対に手術予定日を教えないことにした。
 慶徳さんも「松浦さんといっしょにお見舞いにいきます」と言ってくれたが、うーむ、しばらく風呂にはいれないぼーぼーな姿で、わたしを愛してやまない殿方たちに会うのはやだ、とありがたくお断りさせていただいた。
 ふだんは愛らしい美人先生で通しているのだ。幻滅させては悪いじゃありませんか。

 そして9月9日。わたしはどっさり漫画本を持って聖路加国際病院に入院した。
 最初に病名を告知されたのが6月だったのに、のんびり3ヶ月も放っておいたのは、まあ、そんな理由で忙しかったからだ。しかし、母の身体の具合も安定し、もうそろそろわたした一週間ほど家を留守にしても大丈夫だろ、冬になると寒いし、と手術を決意したんである。
 病室にはいって、まずベッドの上に提出書類を広げた。書類の中にはアンケートもあった。<もし手術後に予後の悪い病気であることが判明した場合、告知を望みますか?>
 以前ならあっさり「はい」にマルをつけていただろう。しかし、6月のはじめての診察後、わたしは自分の精神力のなさに気づいてしまっていた。
「卵巣が腫れていますね」と医師。
「ら、卵巣?」この時点で失神寸前のわたし。
「たぶん卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)という腫瘍です。あなたのそれはまず間違いなく良性だと思いますよ。これは卵巣の中で勝手に脂肪とか、髪の毛とか、骨がつくられてしまう・・」
「 ・・し、しぼう?」妙に敏感なわたし。
「いやいやいや、その死亡じゃない。脂肪です、脂肪」
「す、すみません。ぐあい悪くなってきちゃって・・」水をもらったものの、紙コップを持つ手がこきざみに震えっぱなしのわたし。
「横になって休んでもいいですよ」と言われたが、待ち合い室で大勢の患者さんが待っていることを思えば、そんな言葉に甘えるわけにもいかないだろう。
「大丈夫です」全然大丈夫じゃないわたし。
 微妙にジャン・レノ似のドクターは心配そうだったが、ゆっくりと教えてくれた。「この卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)というのは小さくはなりません。いずれは手術でとったほうがいい。ただ、いますぐどうこうというものじゃないから安心してください」そしてエコーの画像を見て、うーんとうなりながら、「8センチか・・けっこうあるな・・この大きさなら手術をおすすめするけど、どうしますか?」
「・・とってください」さきのばしにしたって腫瘍がでかくなるばかりだ。でかくなればなるほど、手術の傷もでかくなるではないか。
 この時のわたしは切腹、いや、開腹手術を覚悟していた。ところが先生は「あなたのそれは腹腔鏡手術(ふくくうきょう)で十分だと思うよ」と言う。「おへその下を1センチから1.5センチ切って、そこからカメラを入れます。ほかに5ミリほどの穴を3ケ所あけて、そこから器具を入れて、卵巣の腫瘍の部分だけを切り取ります。ただ、長い器具を使って手術するので、開腹するよりは難しいし、時間もかかる。たとえて言えば、ぶどうの皮を手でじかにむくか、ナイフとフォークでむくか、という差です」
 ふーん。
「手術を始めてから腹腔鏡手術(ふくくうきょう)では無理ということになれば、すぐ開腹に切り替えます。開腹の手術なら、まず100パーセント何も起きない。何か起きるとすれば・・う〜ん・・ないな〜・・う〜ん・・」
 先生。何かの起こしかたを無理に考えなくてもいいよ。
 わたしは家の事情を説明し、手術は秋まで待ってほしい、と言った。
「うん、それで全然、問題ないよ」
「じゃあ、秋にまた来た時に、受付で先生のお名前を言えばいいですか」
「まあ、ぼくじゃなくても、誰でも大丈夫だけど」
 いやだ。あたしは先生にやってもらいたいんだい。
 そもそも自覚症状ゼロだったのに婦人科に来たのは、女36の厄年で生まれて初めていった某人間ドックで「ん? なんだ、このコブは?  これはちゃんと病院でエコー検査を受けたほうがいいよ」と言われたからだった。
 この時の人間ドックの医者の乱暴な内診に、婦人科というものはこんなに痛くて恐ろしい場所なのか、とすっかりキズついたわたしだが、「なんだ、これは。なんだかわからないぞ」と言われたモノの精密検査を受けないわけにはいかない。
 しぶしぶ言った聖路加病院の産婦人科の受付では、「今日は男の先生ですけど、いいですか?」ときかれた。もちろんいやだ。が、出なおすのは面倒である。「・・いいです」
 その男性ドクターの内診、そして内部エコー検査は、ほとんど違和感がなかった。
 あの冷静さ。あの器具さばき。彼からは外科医の匂いがする。
 ほかの先生もいい医師なのかもしれないが、「この人なら腹腔鏡手術(ふくくうきょう)を安心してまかせられそう」と信頼できるドクターにせっかく会えたのだ。秋になってから、あらたにそんな先生を探すのは面倒である。
 そして、母の手術、退院が一段落したころ、わたしは再びその医師がいる日に病院を訪ねた。
 エコー画像を見た先生。「小さくはなってないね」
「はあ」
「・・ひとまわり大きくなってるかな」
「はーっ!?」
「うん、まあ、急激に大きくなっているわけじゃないから」
 しくしくしく。やっぱり、やっぱり、とらなきゃだめじゃん。
「変わりはないですか?」
「ええっと、前回、右側の卵巣が腫れてると言われたあとで、こっちがわを気にするようになってから、仰向けに寝るとなんとなくおなかの右側におもりがのっている感じがしたり、便秘ぎみの時に右側に圧迫感がある気がしたりしますけど----言われたからそんな気がするだけなのかも」むかしから、わたしは『ブラックジャック』を読むたびに、作中の患者が痛がる部分がうつってしまうタチだった。
「急な腹痛はない?」
「はい」
 この<急な腹痛>というのは、絶対にがまんできない激痛だそうな。その時は「あきらめて緊急手術を受けてね」と、あらかじめ言い渡されている。
「じゃあ、9月の10日に手術をしましょう」
「はあい」
 その前でも急におなかが痛くなったらいつでも来てください、と言われたが、何もないまま、あっというまに入院日となり、こうして病室に来ているわけである。
<告知を望みますか?>等々のアンケート用紙やら、輸血同意書やらを束ねてから、病棟の看護師にいただいた入院診療計画書に眼を通した。
 1日目。入院日。
 2日目。手術日。
 3日目。手術後1日目。
 4日目。手術後2日目。
 5日目。退院日。
「・・ほ、ほんとだ」
 婦人科は早いよ。あなたは若いから2、3日で退院じゃないの、という言葉は誇張じゃなかったのね、先生。

 さて、1日目。
 聖路加は全室個室なので、ひきこもりのわたしにはとてもありがたい。
 お部屋はなまなかなホテルのシングルより広いし、トイレもシャワーも、ベッドのすぐわきにあるし、洗面台も広いし。いや〜ん。入院ライフ、楽しそう。
 日額さんまんえんだ。楽しまなきゃ損でしょ。
 しかし、母と妹は「個室は絶対にいや」と言う。「さびしくて耐えられない」そうな。ええ〜。気楽であたしは個室のほうがいいけどな。
 荷物をかたづけ、入院計画書を読みなおした。<1日目の夕食は五分粥。21時以降は絶飲食>。う〜ん。お茶も水もだめか。きびしい。
 病棟の医師に診察を受け、抗生物質のアレルギーテストや血液検査で注射針をぷすぷす刺された。
 手術前日で緊張しまくっているであろう患者をリラックスさせようと、病棟の看護師も医師も、たいそう気をつかって優しく声をかけてくれる。聖路加の病棟スタッフって親切な人ばかりだなあ。
 しかし、つい最近、母親の大手術という地獄を見てきたわたしは、自分の手術に対して、あまり緊張感をいだいていなかった。
 父は心配で眠れなかったらしいが、わたしは毎日ぐーすか寝ていた。
 だってねえ。心配したってしょうがないじゃん。ここまで来たら、プロにおまかせするしかないでしょ。
 そのプロのひとり、麻酔科の医師が説明に来た。
 今度の手術では、頭が下になるように身体を傾けて、重力で腸を上半身がわに寄せ(卵巣は腸の裏がわにあるから)、さらにおなかの中に炭酸ガスを送りこんでぱんぱんにふくらませるので(おなかがぺちゃんこだと手術しづらいから)、患者に意識があっては痛くて無理なのだそうな。で、全身麻酔をかけられることになったのだが、「点滴からお薬を入れて、呼吸ができないほど深くお眠りいただきます」
「呼吸ができない?」
「はい。ですから人口呼吸器の管をのどに入れます。手術が終わったあと、こちらから声をおかけします。ご自分で呼吸ができるとこちらが判断してからでないと、管を抜けませんので、麻酔からさめましたら呼びかけにお答えください」
 自分で呼吸できない。
 それって、深く眠るというより仮死状態に近いのでは ・・ひえ〜、全身麻酔ってそういうものなんだ。
 ちょっとくらくらしてしまったが、このしっかりした先生がずっとそばについていてくれるんなら、まあ、いいや。
 そこに主治医が現われた。
「変わりはないですか? 腹痛もなかったですか?」
「はあい」
「じゃあ、明日ね」
「よろしくお願いします〜」
 その後、わたしはベッドでこころゆくまで読書をし、給食のお粥をありがたくいただき、安らかに眠ったのだった。

 2日目。手術日当日である。
 ついに手術室デビュー! 不思議と陽気なわたし。 
 朝早くから起こされて、いろいろ準備をした。前夜からの絶飲食、下剤、浣腸でおなかの中をきれいにし、点滴の針を入れる。
 しかし、運動不足のわたしの血管は細く、普通の点滴の針ははいらなかった。うう、左腕から貴重な血が〜。これから手術なのにもったいない。
 そうそう、今回の手術では事故で大出血でも起きないかぎり、輸血はしないことになっている。
 そして、ひとまわり細い針が右腕にセットされ、抗生物質と栄養剤の点滴が始まった。点滴の出始めでチューブの中を空気のつぶがすーっと流れてからだにはいってくるのを見るのはあまりいい気分ではないが、ちょっとくらいの空気なら自然吸収されるので全然問題ないそうな。古いミステリの読み過ぎというのは、こういう時に困りますね。
 やがて看護師さんが手術用の服と車椅子を運んできた。わー、服があったかい。なるほどね〜。裸の上に直接これ一枚だから、こうして温めておいてくれるのね。
 看護師さんが言った。「あの、ご家族のかたは・・」
 ご家族のかたはですね。母は自宅療養中。猫は下痢中。妹はそのふたりの介護中。父は午前中どうしてもはずせない会議があって、「午後に父が会社を抜けてきます」
 そこまで見捨てられた境遇なのにやけに明るい患者は車椅子にのせられて、いざ手術室に向かった。どんなとこなのか、よく見学しておこう、と興味津々だったのだが、大事なことを忘れていた。
 コンタクトをはずすと、わたしはほとんど何も見えないのである。
 しかし、見えなくて幸いだった。ろくに器具等が見えないおかげで、恐怖感がまったくわかない。
 母が別の病院で手術を受けた時に初めて知ったのだが、大病院の場合は手術室というよりも手術フロアという感じがする。無菌の手術フロアへの入り口はひとつで、中にはいるとその先がたくさんの手術室に別れている。母の時は朝いちばんだったせいか、手術室入り口前に母ひとりしかいなかったが、「混んでいる時には、手術室にはいる順番待ちのベッドがずらーっと通路の端まで並ぶんですよ」と言われてたまげた。
 わたしはかなり奥の手術室につれていかれた。
 手術台はとっても狭い。アイロン台のようだ。というか、ほぼ身体の幅と同じくらい。腰かけるとやわらかくてほかほかだった。わー、手術台もあたたかいのね。エステ気分で喜ぶわたし。
 心電図などの機器が取りつけられ、ついに点滴から麻酔薬が入れられた。
「はい、眠くなりますよ〜」
 眠くはならなかった。
 眼の前がゆらっと揺れて、「あれっ、沈む、沈む、沈む」とぷん、と意識がとぎれた。
 そしてすぐに「中村さん」と声をかけられた。「終わりましたよ〜」
 えっ!
 おかしい。わたしの中では数秒しかたってないぞ。全身麻酔ってすごい。
 その後、回復室で麻酔がさめるのを確認してから病室にあがるのだが、わたしはなぜか回復室にずっと寝かされていた。自分ではちゃんと呼びかけにこたえていたつもりだし、「っかしーな。30分くらいで部屋に戻れるんじゃなかったのか」と思っていたのだが、どうもまわりから見て「こりゃ、まだダメだ」と判断されたらしい。
 病室で待っていた父は、「あと30分くらいであがってきます」と言われたのに、いつまでも戻ってこないので、イライラしていたそうな。電話のむこうの母は母で、「あの子のことだから、ぐーすか寝てるんじゃないの」
 失礼な。
 だいたいね〜、おかーさんだって、30分であがってくるって言われたのに1時間以上戻ってこなかったんだからね。麻酔が抜けない体質は遺伝だよ、遺伝。
 病室に戻ってから、わたしは看護師さんに訊ねた。「いま何時ですか」
「5時ですよ」
 5時? そんな馬鹿な〜。手術は2時間くらいで終わるって言われてたのに。じゃあ、あたしは回復室で3時間近く寝てたのか?
 ごめんね、おとーさん。もう帰っていいから。
 と、言う前に、父はさっさと帰った。疲れたんだろうな。
 うすらぼやんとした頭のまま、一生懸命に酸素マスクの中で呼吸していると、執刀医が来てくれた。
「すべて順調です。きれいに取れましたから」
「あいがとうごあいまふ〜」人工呼吸器の管が長時間のどにはいっていた影響で、妙な声のわたし。
 とりあえず、先生の言葉に安心したわたしは、ぐーすか寝始めたのだった。

 3日目。手術後1日目がいちばんハードそうだった。
 診療計画書にはいきなり<病棟を歩いてもらいます>と書かれているのだ。
 看護師さんの手を借りてベッド上で上体を起こし、身体をふいてもらって着替える。この時、初めて気がついた。
 点滴の針がいつのまにか左腕にはいってる!
 手術中に入れ替えられていたのか。知らなかった。
 知らなかったから、昨夜はずっと右腕をかばって、左腕をがんがんぶつけながら、ラジオだのMDだのを取っていたぞ。
 そして、足にかぶさっていた布団をはいで、初めて両足の上体を把握した。
 なんか、布でできたブーツみたいのをはかされている。「一晩中、ふくらはぎをマッサージしてたのはこれか!
 ずっと同じ姿勢で動かずにいると血栓ができてしまうので(エコノミー症候群ってやつです)、手術中からずっとこれを装着されていたそうな。
 看護師さんは言った。「病棟が一周、だいたい100メートルで、ここを10周できたらこのマッサージ器をつけなくてもいいことになってるんです」
 10周って、「連続で?」
「いえいえ。休み休みで大丈夫ですよ」
 よし、がんばってこようじゃありませんか。
 なんたって手術直後で熱が出ているうえに、膝までがっちり布でくるまれていては、暑くてしょうがないのだ。
 前の晩は、途中で眼がさめてからは寝過ぎと暑さで眠れなくなってしまい、氷枕を頼んだほどである----結局、寝過ぎがたたって、最終的には薬で眠らせてもらたのだが。
 マッサージブーツから脚を抜き、わたしは点滴のポールをからからとひきずって、病棟を歩き始めた。
 余談だが、母が入院していた病院の真正面にはスタバがあり、どうしてもコーヒーを飲みたかったらしいパジャマ姿の男性が自分の点滴ポールを「ふんっ!」と持ち上げ、車道をわたってそのまま店にはいっていくのを目撃したことがある。いいのか?
 病棟を2周したところで、見覚えのあるおじさんが通路に立っていた。はっ! あなたは!
 白衣を着てないから、一瞬、先生だとわからなかったわ。
「どうですか?」
「はあ。思ってたより痛くないです」
「でしょ」
 実際、4ケ所の小さな傷がひりひりするくらいで、いちばん辛いのはおなかや肩や鎖骨のあたりの筋肉痛に似た痛みだった。がっちり手術台に固定され、炭酸ガスをおなかに入れられていた影響らしい。
 わたしは先生と別れて、またぺたぺた歩き出した。でも、土曜日のこんな朝早くに、先生って病院にいるのね。住んでるのか?
 こうしてあっさり10周をクリアしたわたしは、マッサージ器から解放されてごろごろしていた。
 すると麻酔科の先生が様子を見に来てくれた。
「具合いは悪くないですか?」
 どうも、全身麻酔のあとは吐き気がするものらしくて、前日の回復室でも何度も「具合いは悪くないですか?」ときかれたのだが、鈍感なわたしは別になんともなかった。
 それどころか、「今朝から、のども全然、痛くないんですけど」
「そうですよね。普通に喋ってらっしゃいますよね」
 のどが一週間くらい痛んで、しばらくはうまく喋れない人もいる、ときかされていたのに、なんなんだ、この鈍感さは。
 わたしって手術に向いてる? などと考えていたところに、妹と父がやってきた。
「ねー、たいへんだったんだって?」と妹。
「なにが」
「あれっ、きいてないの? おなかからいっぱい出てきたって」
「脂肪がでしょ」
 なぜか主治医は、手術前にわたしの診察をするたびに、「あなたの卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)の中身は、まず脂肪にまちがいないと思うけど」と、毎回やけに脂肪説を強調し、乙女心をキズつけてくれたものである。まあ、たしかにMRIの画像は腫瘍部分が真っ白でぶよぶよしてたけどさ。
 妹は楽しげに言った。「え〜、脂肪と髪の毛と骨が出てきたってよ」
「ほねー!?」
 妹はやけに嬉しそうだった。「骨がへその穴からなかなか出なくて、それで時間がかかったって。きいてないの?」
 くらくらくら。
 せっかく主治医が気をつかってくれたというのに、このバカ親父とバカ妹は〜。
 しかし、前日、病室に戻ってきたのが5時だったのは、そういう理由だったのだ。先生、ありがとう。何も言わないでくれて。
「じゃ、なにかい。あたしはヘソの穴からピノコを産んじまったってことかい」
「おめでとー」
「ひいいいい」
 ・・『ブラックジャック』から離れられないわたしたちであった。
 夕方、病棟の医師が診察に来た。おなかをおさえられた瞬間、「いたいっ!」驚く先生。
「ここは?」「いたいっ!」
「このへんは?」「いたいっ!」
「ん〜、中で炎症を起こしているのかもしれませんね〜」「ええ〜」
 どうしたって、おなかの中で手術をするので、中身が少しこぼれてしまうのだそうだ。「洗浄して吸引しましたから、大丈夫ですよ」と言われたけど、しくしくしく。押されると痛いよう。
 その夜は、傷口とおなかが地味にじんわり痛むので、「痛み止めをもらおうかな〜、どうしようかな〜、痛みが気になって眠れないけど、たいした痛みじゃないからな〜」と考えているうちに、ぐーすか寝てしまったのだった。


 4日目。手術後2日目である。
 朝の検温で起こされたわたしは、自分の頭から、身体から、やばい匂いがすることに、まず気がついた。
 うわーん。自分が臭い!
 よ、よかったわ。わたしを愛する男たちのお見舞いを断って正解だったわよ。
 手術の前日に聖路加タワーの花屋で百合を一本買って、ペットボトルにぶっさしておいたから、花の香りで一応はごまかしがきいているけど、それでも、それでも、自分が臭い。シャワーをあびたいよう。
 そしたら朝食のあとで「今日からシャワーをあびてもいいですよ」と言われた。すぐに浴室にかけこむ。
 ずっとお粥だった給食も、この日は朝から常食に戻っていた。
 前日は、食べると胃が激しく動くせいか、おなかが痛くなったり、具合いが悪くなったりしたが、2日目ともなると落ち着くのか、なんともない。
 そして、昨夜の炎症もおさまったらしく、押されてもまったく痛くなくなった。
 ところで、看護師さんたちに何度も「痛くないですか」ときかれるのだが、この「痛い」の基準がわからなくて困った。
 まったくがまんしないのも問題だが、あまりがまんしすぎても問題だろう。
 とりあえず、「切っていじった」程度には痛いが、どの程度から「痛いです」とうったえたほうがいいのだ。
 質問すると、「あ、痛い時は激痛です」という答えが返ってきた。な〜んだ。
 そしてこの日も妹と父がやってきた。
「昨日までは病人っぽかったけど、今日は元気そうじゃん」と妹。
「そう? 自分じゃ変わりないけど」わたしは父の土産の草大福を食べながら言った。「ここの食事、うまいのよ〜」
「ほんと?」
「お母さんの病院のもおいしかったけどさ(わたしはつまみぐいしていた)、こっちのほうがずっとおいしい」
 ところで、母が1 ヶ月入院していた病院では、毎日、酢のものが出ていた。聖路加は酢よりも大根おろしパワーを信じているのか、なぜか毎日のように、大根おろしがついてきた。
 いや、それとも全身麻酔でマヒした腸が便秘で腸閉塞にならないように、食物繊維を一生懸命とらせているのか?
 父と妹が帰ったあと、看護師さんに「ガスは出ましたか?」ときかれた。
 ふっ。おならなんて、昨日から出まくってるわ。個室で本当によかった。しかし問題は・・
「どうしても出なければ、下剤をお持ちしましょうか?」
「う〜ん」
 わたしは考えた。一応、明日が退院日ということになっている。いま飲んで、明日、帰りのタクシーの中で波がきたら、たいへんなことにならないだろうか。
 夜、家に電話をかけたついでに、そのことを話した。「まだ出ないのよ〜」
 経験者の母は冷静だった。「手術前に全部だしてるからね。あのあと、あまり食べてないんだったら、まだじゃないの。下剤は飲まないほうがいいよ」
「うん」
 電話を切ってから、わたしは水をがぶ飲みし、病棟内のウォーキングを始めた。
 10分後。わたしは再び家に電話をかけていた。
「出た、出た。いっぱい出た!」
「おまえはバカか!」怒鳴る妹。「そんなことで電話してくるな!」
「じゃっ、そーゆーことで。明日、迎えにきてね〜」

 5日目。退院日である。いや〜、早いわ。
 しかし、今回の入院ではひとつ大失敗があった。おなか、というより、おへそにキズをつけるのだから、パジャマはいかんかったのだ。
 シャワーをあびるまではネグリジェを着ていたのだが、着替えはパジャマしか持っていかなかったので、その晩はなかなか寝つけなかった----おへそにゴムがあたって。
「う〜む。パジャマのズボンを脱いで寝ようか。でも、今日からずっと検温のかわりに、傷口の確認に来てるからな〜。布団をめくって、あたしがズボンはいてなかったら、変に思うだろうし」
 この次はネグリジェだけにしよう・・ってこの次? 再発はいやだあ!
 そして、朝早く、主治医がやってきた。
「なんともないんでしょ?」
「はい」
「うん、じゃ、退院していいんじゃない」
 やった!
 それじゃ、また外来でね、と病室を出ようとする先生に、わたしはあらたまって声をかけた。
「あのう、前はあおむけに寝ると右側に何かがのった感じがして、なんとなく寝苦しかったんですけど、手術のあとはそれがなくなって、すごく楽になったんです。本当にとってよかったと思って。どうもありがとうございました」
「いやあ、そう言っていただけると」
 にこにこと主治医が出ていったあと、病棟の医師がばんそうこうをはがしに来てくれた。うう、キズを見るのが怖い。
 ところが、いちばん大きな傷はおへそと一体化していて、一度、ふさがってしまえば、見た目はまったく傷とわからなそうだった。
 わたしは反省した。
 手術前、わたしは誰に見せるわけでもなし、「大きな傷のひとつやふたつ、かまいません」と言っていたのだが、先生はそんな本人よりもずっとわたしの身体を大事に考えて、なるべくきれいに治るようにしてくださったのだ。
 毎日、お世話しに来てくださった看護師さん、病棟の先生、麻酔科の先生。それが職業だ、仕事だ、報酬をもらっているんだ、と言ってしまえばそのとおりだけれど、患者の命と身体を守ろうとする愛を感じた5日間だった。
 入院中、病棟の屋上庭園(なかなかりっぱで広い。けど、喫煙者がいっぱいいるのがちょっといや)をよろよろ歩きまわりながら、「みんなに守ってもらった命と身体なんだから、この先、どんなつらいことがあっても、粗末にはできないなあ」などと殊勝なことを考えたほど、珍しくわたしは感動していた。
 しかしアレだよね。先生がたが愛情こめて患者を健康体にしようとするのと、翻訳家が愛情こめて原書を日本語に変換しようとするのは同じだよね。愛情がこもるかこもらないかで、作品の出来に差がでてくるよね。プロってそうだよね。退院したら、生まれ変わった気持ちで、初心にかえって仕事をしよう。
 と、今回の入院ではおなかばかりでなく、プロ翻訳家としての根性までも治療されてきたのでした。

 さて。わたしと同じ病気になった人のために、術後報告を少々。
 退院後、卵巣をいじった影響か、女性ホルモンのバランスがくずれたらしく、ちょいとした更年期障害のようになって、「暑い! 暑い!」と異常なほど暑がっていました。
 これはまずい、と、豆乳とざくろジュースを毎日飲むようにしたところ、もともと一時的なバランス崩れだったのか、それとも豆乳とざくろパワーのおかげかわかりませんが、異常なほてりは治りました。
 ところが、この豆乳とざくろジュースには思わぬ副作用が。おはだがしっとりつるつるになってきたのよん。若返りパワーがあるのか?
 そして、この手術には思わぬ後遺症が。おなかがふくらむとへその傷が広がって痛むので、あまり食べられないのです。順調にダイエットできてしまっているのです。おなかがやせたわ〜。
 ただし、便秘になっては困るので(腸閉塞が本当にこわいから)、野菜や繊維質を多くとって、傷をなおすために、たんぱく質を多くとる、ということはこころがけました。
 それでも便秘にはなるんだよな・・不思議だ。あんなに野菜も水もとっているのに。毎日、ウォーキングもしてるのにさ。
 術後、1週間 目に、突然、へそがひきつれるように痛みだしました。「まさか、食べ過ぎで、内側から傷がさけてきてるのか?」と本気で心配してしまいました。朝からずっと、ひりひりひりひり、と痛みが続き、夕方5時についに「痛み止めを飲もう」と初めて薬を飲んだほど。
 でも、アレは傷が治ってきて収縮する痛みだったようで、3日後にはぴたりとおさまりました。
 退院時に、「もうおふろにはいってもいいですよ」と言われたのですが、なんとなく怖いので、しばらくはシャワーのみですごしていました。
 10日目に、妹がおふろを掃除してくれて、一番風呂にはいったのですが、おへそにお湯がじんじんとしみる〜、ので、ずっとシャワーだったのは正解かも。
 早く、へそにお湯がしみないようにならないかな〜。
 温泉に湯治にいけないじゃないか。

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